新潟県村上市「町屋と人形さまの町おこし」で、
商店街ににぎわいが戻ってきた吉川美貴さん

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新潟県村上市
「町屋と人形さまの町おこし」で、商店街ににぎわいが戻ってきた
吉 川 美 貴(き っか わみき)
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村上市の旧町人町にある商店街のまちおこしに立ち上がった吉川真嗣さんの、最も身近な協力者であり、観察者でもあった美貴夫人。…

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まちづくりには運命的な出会いがあった

 平成8年、私は、新潟県村上市で鮭の加工販売を営む「♭300F♭2036♭2039♭2033♭2038っ川」の跡取り、吉川真嗣と結婚し、人口3万人の城下町で新生活をスタートさせました。私は神戸市灘区、異人館にも近い町の真ん中から嫁いで来たものですから、初めて日本海沿いの村上市にやって来たときは、何とも活気のない寂しい町に映りました。

 主人は二男で、本来は跡取り息子ではなかったのですが、事情によって長男が家を継げなくなったので、それまで勤務していた川鉄商事を急きょ退社して、家業を継いだという経緯があります。

 吉川は、平成2年の暮れに村上市に帰り、家業に従事したのですが、そのころは販路を拡大するために全国の百貨店を営業で訪ね歩き、地元の村上市は留守にすることが多かったということです。そのために、たまに商店街の集まりに出席しても、発言もしない、どちらかというと目立たない存在だったようです。

 その彼が村上市のまちづくりに立ち上がったのには、平成10年の、ある人物との運命的ともいうべき出会いがありました。

 その方は福島県会津若松市の御菓子屋さんで、会津復古会を立ち上げられ、当時、全国町並み保存連盟会長であった五十嵐大祐さんでした。五十嵐さんとは、東京の百貨店の催事でお目にかかり、その夜、私どももご一緒に食事したのですが、そのときの会話が、吉川を目覚めさせ、発奮させることになりました。

 吉川が村上市内で道路拡幅が迫っていることを話すと、村上市にも来られたことのあるという五十嵐さんの顔色はみるみる変わり、それは絶対やめさせるべきだとおっしゃるのです。大体、次のようなお話だったと思います。

「村上市が素晴らしいのは、武家町と町人町の両方が残っているからだ。これは全国的にも珍しい。この一方の町人町を近代化するということは、町屋が壊され、城下町としての価値を失うことになる。また、商店街にとっても、道路を広げて栄えた町は全国どこにもない。逆に、ただ車が通り過ぎるだけの商店街となり、車優先で商店街は分断され、買い物は不便になり客足は遠のき、お年寄りにとっては危険で住みづらい町となる。拡幅による衰退、これが全国の商店街の現状だ」

 この言葉に、私たちは衝撃を受けました。五十嵐さんに、道路拡幅は百害あって一利もないと知らされたのです。この日を境に、吉川のまちづくりの情熱が燃え上がり、また、苦しくも長いまちづくりの戦いが始まりました。

 吉川がまず始めたのは、全国のまちづくりの先進地の視察でした。仕事で全国の百貨店を回っておりましたので、そのついでに足を延ばし、まちづくりで話題になっている町を次々と訪問して回りました。まちづくりのエキスパートやキーパーソンと言われている方に直接お会いして教えを請いました。訪ねた先のまちづくりの先駆者たちは、どなたも親切で、体験を語ってくださいました。そして、「あの町には、こういう方がいるから会ってみたらいいですよ」と紹介していただいたり、会いに行った先では、また次の方を紹介してく

伝統的な建築「町屋」を核にして、まちこおしに

立ち上がった吉川真嗣さん。ださるというかたちで、これまでに250を超える町を訪問し、数えきれないほどのまちづくりのリーダーにお会いしました。これらの視察には、すべて私も同行しましたので、かかった交通費や宿泊費なども相当なもので、安い家なら一軒買えるほどだったと冗談を言い合うほどです。

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伝統的な建築物「町屋」の再発見
 やがて、吉川に、村上市におけるまちづくりのアイデアがおぼろげながら浮かび上がってきたようでした。それは、町屋を核にしたまちおこしができないかというものでした。今でこそ、村上市の地域資源として、町屋の歴史的文化的価値を誰でも言うようになりましたが、当時は武家屋敷の保存には熱心でも、町屋については誰も口にしませんでした。

 町屋というのは、旧町人町の伝統的な建築のことですが、間口は狭くて、うなぎの寝床のように奥行きが長いのです。店から、そのまま土間で囲炉裏のある茶の間につながっていて、そこには仏壇、神棚が祭られ、吹き抜けになっています。
「♭300F♭2036♭2039♭2033♭2038っ川」も、店から障子戸を開けて、奥に一歩入ると、昔からの黒光りする梁があって、そこには何百匹という鮭が頭を下にして吊るされています。
 吉川は、遠方からのお客様には、この鮭の説明をするために奥の茶の間へ案内して、鮭を見せておりました。そうすると、鮭に驚くと思っていたお客様たちから、鮭はもちろんですが、町屋に対しても「懐かしい造りだ」とか「江戸時代にタイムスリップしたようだ」「私もこんな家に住んでいた」とか、さまざまな感想が寄せられたのです。当時、町屋に住んでいる当人たちにしてみれば、暗くて寒くて、ただの不便な古い家という認識しかなかったのですから、これらの声は意外なものでした。

 吉川は、この町屋が最大の観光資源になるとひらめいたのでしょう。店から一歩奥へ入ったプライベートな部分である茶の間を見せて集客を図る、ということを考えついたのです。その考えを具体化するために、マップ制作に着手しました。吉川は、町屋づくりの商店を選び出し、「村上の町を元気にしたいのです。そのためにマップを作りたいと思いますので、お宅の店も紹介させてください。もし、お客さんがいらっしゃって、希望があれば茶の間まで見せてあげてくださいませんか」とお願いして歩きました。制作費も印刷代も折り込み費も、すべて吉川の負担です。この吉川のお願いに、地酒屋さん、お茶屋さん、和菓子屋さん、染物屋さん、堆朱(漆工芸)屋さんなど22店舗が賛同してくれました。この22店舗を吉川が自分でイラストマップに描いたのですが、手描きの温かみのあるユニークなものに出来上がりました。

 平成10年8月1日、この日は、吉川にとっても私にとっても忘れられない日となりました。「村上絵図」というタイトルのマップを、村上市とその近隣地域10万世帯へ、新聞の折り込みにして配布したのです。このマップにより、目を見張るほどの変化が起こったわけではありませんが、今まで観光客が街なかを歩くことがなかったのが、マップを片手に、町を散策する人がチラホラ見かけられるようになってきました。

 このとき協力いただいた22店舗が「村上町屋商人会」の結成につながり、6年経過した平成16年には27店舗に増えております。これがその後、華やかな展開を見せる「町屋の人形さま巡り」と「町屋の屏風まつり」を興す母体となりました。

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四面楚歌の道路拡幅反対の署名運動

 ちょうど、マップを制作のために街なかを走り回っていたころ、吉川は道路拡幅の反対運動も同時に立ち上げました。五十嵐さんから示唆のあった、「道路を拡幅すれば町は衰退する」という言葉が、頭から離れなかったからです。

 吉川は青年会を中心に、ひそかに反対の署名運動の書類を回しました。しかし、3週間もしないうちにこの運動は一挙につぶされてしまいました。小さな町ですので、すぐにさまざまな人に伝わり、あっちから怒鳴られ、こっちから怒られ、という状況になったのです。夜中には、私たちの自宅に怒鳴り込みと脅しの電話がかかってくるようなこともありました。

 今から思えば、この周囲の怒りはもっともなことでした。それまで、吉川は商店街の活動に積極的でなく、意見も言わない、汗もかかない、何もしていない存在だったのです。それまで長い間議論を交わし、商店街を引っ張ってきた人たちがいるなかで、何もしてこなかった若造がある日突然、ゲリラ戦法のように署名運動を展開し、集めた署名を市長に突き付けようとしたのですから。当然、近代化を推進している市役所や商工会議所からも非難の目が向けられました。まさに四面楚歌の状態でした。城下町特有の、お祭りを中心にした縦社会のしがらみにも初めてぶつかり、事態の何たるかに気付き、やむなく署名運動を撤回しました。

 しかし、このことについても、吉川は敗北と考えるのではなく、作戦を転換したのでした。「署名運動によって古い町を保存できても、死んだような町が残ったのでは意味がない。伝統的なものを生かせば魅力的な町になる。道路拡幅反対を唱えるよりも、実際に今現在の町を生かして活性化させることに力を注ぐべきだ」と。署名していただいた400人の方たちには、署名活動撤回のおわびと、新たなまちづくりへの決意表明を書いた手紙を出したのでした。

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「人形さま巡り」は、3万人の集客を呼んだ最大のイベントに マップが話題となって、マスコミにも取り上げられることはしばしばでした。しかし、吉川は町屋をもっとスターに、短期間に集中的に人を呼び込める活性化の起爆剤になるようなイベントができないかを考えておりました。そのとき、私たちのまちづく視察が大「♭300F♭2036♭2039♭2033♭2038っ川」は、現代的な店舗を、あえて昔風の店構えに変えた。

春の「人形さま巡り」に対して、秋の「屏風まつり」も大成功だった。いに役に立つことになりました。以前、福岡県吉井町に出向いた折り、「とくどや」というお菓子屋さんに伺って、そこのご主人の壇浦さんから、今まで眠っていた雛人形を蔵に飾って公開した結果、想像を超える人出となり、年々その期間に来られる人の数が倍々に増えたというお話を伺ったことを思い出したのです。

 吉川は、この吉井町にヒントを得て、お雛さま構想に具体的に着手しました。この構想の概略は、村上の旧町人町一帯の町屋で、店先ではなく、生活空間である茶の間にそれぞれの家の人形を飾り、それをお客様に巡って見ていただくというものです。そして、これをすべて無料で行うというものです。吉川は企画書を作り、「町を元気にしたいのです、家にある人形を出してもらえませんか」と、一軒一軒を訪ねて回り始めました。

「町屋の人形さま巡り」をスタートさせたのが、平成12年の3月ですが、その準備には前年の夏ごろから取り掛かり、一軒一軒、了解を取りつけながら店を回りました。最終的には110軒お願いして回ったうちの60軒のお店が、人形さま巡りに参加してくれることになりました。よくも飽きもせずに、100回以上も同じことを説明、説得して回ったものと感心します。

 ところで、この準備に追われている平成11年の12月、またまた一悶着がありました。というのは、新潟日報から、「ふるきをいかしあたらしきをつくる-活古創新-」という特集を組むので、寄稿してほしいという依頼があったのです。道路拡幅反対の署名運動は撤回したものの、40年も前の都市計画を実施することについては、もちろん反対でしたから、吉川は持論を堂々と展開したのです。記事の一部分を引用してみます。

「武家町と町人町が共にあってこそ城下町である。町人町の町屋はうなぎの寝床のような細長い造りをしている。土間を通れば囲炉裏(いろり)のある茶の間、大黒柱に松の梁(はり)、仏間の上には神棚があって、なぜか心が落ち着く。しかし道路が広がればこの町屋は壊される。武家屋敷と町屋は一対。町屋がなくなるということは顔半分をペンキで塗りつぶされるのと同じことだ。各地で歴史と文化を大切にしようといわれている時代に、村上では都市化の計画がそのまま進みつつある。

 村上は歴史的価値を持つ貴重な城下町。全国一律の顔をした町がどんどん増えているなか、村上は村上らしい顔を断じて持ち続けるべきである。それが心のふるさとを持っているという誇りにつながる。行政は過去の延長で計画を進めるのでなく、市民と一緒にこの村上の歴史と文化の価値を十分考え、市民が誇りに思える新しい町づくりの計画を立てるべきだ」

 これが新聞に掲載されると、地元村上からは、大変な非難の声が上がりました。

 商店街の人たちにも、さまざまな事情があります。後継者はいない、お客は大型店にとられ、商売は行き詰まっている、家は古くなり修理もままならない。セットバックによって相応の補償費が入れば、家を建て直すか、どこかよそで暮らすこともできるという人も多いのです。私たちは、この人たちの状況も分かるものの、町全体の将来のことを考えれば、やはり町屋が壊され、全国どこにでもあるような、味わいのない平板な町、そして車が通り過ぎるだけの死んだような町になることは耐えられないことでした。

 吉川は、言葉で言っても分からない人たちには、何としても人形さま巡りを成功させ、実績を上げて理解してもらうしかないと、その場を耐え、人形さま巡りを何が何でも成功させるべく、できる限りの工夫と仕掛けに直前まで奔走しました。

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まちづくりには、三つのリスクを引き受ける覚悟が要る

 平成12年の3月1日から4月3日まで開催した、「町屋の人形さま巡り」は大成功でした。期間中に3万人以上ものお客様が見え、経済効果も1億円を超えたと言われております。

 このイベントは、いろいろな意味で村上の町を大きく変えるきっかけとなりました。「そろそろ店を閉じようかと思っていたけれど、もう一度頑張ってみようかしら」という商店のおかみさん、「おれも帰って父親の商売を継いでみようか」という後継者まで、さまざまな反応がありました。

 いちばん大きな変化としては、今まで家の奥にこもっていたお年寄りが人形の説明役に出てこられ、生きる張り合いができてお元気になられたこと。そしてお客様に褒められることで「町屋」が大切な財産であると、自分の住まいに対す

「町屋の人形さま巡り」は、空前のヒットとなった。

■編集部

 吉川真嗣氏の村上市でのまちづくりについて、夫人の吉川美貴さんが、『町屋と人形さまの町おこし』という本を学芸出版社(〒6塚塚-8216 京都市下京区木津屋橋通西洞院東入 【♭2A66】塚75・343・塚811)から出版されました。夫妻のまちづくりへの奮闘ぶりを記録したものです。まちづくりに取り組んでいる方々にとっては、大変参考になる本ですので、ご一読をおすすめいたします。る認識が変わったこと。さらには、わが町村上を誇りに思う人が増えたことでした。

 まちづくりは、いい方向に歯車が回ると、次からはだいぶ楽になるものです。春だけでは物足りない、秋にも大きなイベントが欲しいという要望を受けて始めたのが、「町屋の屏風まつり」です。村上において歴史的にもゆかりのあるまつりを形式を変えて、蔵の中に眠っている屏風を飾って見てもらおうと企画しました。これも一日当たりとしては人形さまを超える人出となりました。この二つのイベントの成功で、吉川は、新潟県異業種交流センター主催の地域活性化大賞ベストオブベスト賞や総務大臣賞を受賞し、その後のまちおこしも大きく評価され、平成16年には「観光カリスマ」の選定も受けました。五十嵐さんにお会いし、マップを制作したのは、たった6年前のことですが、何か遠い昔のような気もするのです。

 吉川のまちづくりへの取り組みを最も近くで見てきた者として、その極意ともいえることで、強く感じていることを述べさせていただきます。それは、まちづくりのリーダーには、三つのリスクを引き受ける覚悟が要るのではないかということです。

 まちづくりに限らず何か物事を興そうとすれば、まず第一に、お金が問題になります。例えば、企画を立てて、それを提案したとします。すると、必ず返ってくる言葉が「町にとっていいことは分かる。しかし、それには金が掛かる。金はどうするんだ?」です。人間誰しも余計なことにお金など出したくないのですから。そんな時、吉川は「お金のことは心配いりません」と言い切ってきました。自腹を切るか、助成金などを捜すか、寄付を募るかはさまざまですが、お金についての対策は事前に立てておき、他の人にお金の心配をさせない準備(心積もり)をしておくのです。ここでぶつかると、進む話も進みません。事実、最初のマップ作成時には全額を吉川が負担し、突破口を開いたのです。しかし、マップ2号を作成するに当たっては「あいつだけに負担させてはいけない。出せる者だけでいいからお金を出して作ろう」となりました。最初を突破し、流れをつくり出す時が肝心なのです。

 ところで、お金の心配がないと分かると、次に出てくることが二つ目のリスクです。「しかし、それをやるのは大仕事だ。誰がそれをやるんだ? 俺はとてもできないよ」という労力の面についてです。そんな時も吉川は「面倒なことは皆さんにさせません。ここの部分だけやっていただければ、あとは私がやりますから」と言い切ってきました。誰しも面倒なことはやりたくないもの、それでも個々にお願いすれば協力してくれる人も出てくるわけですが、要は最初の段階で余計な不安を与えないということです。

 しかし、ここまできても、必ず最後に問われることが三つ目のリスクの「責任」です。「しかし、何か厄介なことが起こったら、一体誰が責任を取るんだ?」です。これについても、もうお分かりでしょう。「私が責任を取ります」と言い切るわけです。事故など起こらないよう対策を考え、最低限の準備をすることは前提です。要は、責任を取ると言い切ることで自分の覚悟を表明し、相手を納得させ、不安を与えず、物事を進めることだけにエネルギーを傾注するということなのです。

 物事をストップさせる三つの要因である「お金・労力・責任」という三つのリスクを引き受け、ここまで言い切ると、もうそれは反対のしようがありませんから、確実に物事は前に進みます。一言で言うと、「覚悟を決める」ということなのでしょう。

 人形さま巡りと屏風まつりが成功を収めると、あとは物事がいい方向に回り始めました。一定の期間だけのイベントではなく、通年での集客を図ろうと立ち上げた3月〜10月の第四日曜日の骨董市も定着しました。また、味気ないブロック塀を昔ながらの情緒ある黒塀に戻す、まちづくりプロジェクトもスタートさせました。これは、市民に千円で板を買ってもらい、ペンキ塗りからやってもらい、ブロック塀の上に板を張る簡易工法です。町並みも自分たちで意識してつくっていくものという機運が芽生えてきました。

 ところで、話はさかのぼりますが、「♭300F♭2036♭2039♭2033♭2038っ川」は平成11年には、近代的店舗から、アーケードを自分の店の前だけ取り払い、伝統的な座売りスタイルの店構えに変えました。その結果、商店街の外観が、潤いのある落ち着いたものとなり、来店客数は激増しました。今年、平成16年には、吉川の考え方に同調してくださった和菓子屋さんも、店舗を昔風の店構えに変えました。こうやって、通りの店々が歴史的考証に従い、外観が整備され一貫した雰囲気を醸し出すようになったとき、村上の商店街はさらに、にぎわいを取り戻すものと信じております。

 現在、吉川は「市民基金による町屋の外観再生プロジェクト」を始動させました。

 ぜひ、村上市においでいただき、マップを片手に町歩きをお楽しみください。そして、町屋の奥の茶の間までご覧いただき、村上のたたずまい、暮らしぶりをご覧ください。

かがり火No102 p4掲載記事

内山節氏の
学塾(下)日本的精神について
 戦後の日本は、都会に住む人間が地方に対して何ら根拠のない優越感を抱き、地方に住む人間は都会に対して、いわれのないコンプレックスを感じてきたように思う。バブル崩壊後、豊かさが問い直され、その価値観は全くナンセンスな思い違いであることが明らかになった。

 内山哲学は、ローカルな世界ほど豊饒なる日本的精神をはぐくんでくれるものであることを明確にしてくれた。今回は、哲学塾の最終回です。ローカルな共同体と共に生きてきた人たちは、ごく自然に「おのずから」の世界をつかんできた。

 徹底した個人主義と、共同体と共に生きていくという精神は矛盾しない

 あらゆるものの中に矛盾があって、そのことを前提にして生きてきた人々というのは、まず、精神のあり方というものが、一つでは済まないということだと思うのです。

 例えば、自然との関係というところだけを見ても、さっき言ったように、自然があるからこそ、われわれは生きていける。自然というのは、とてもありがたいものだ。これも、一つの精神の形なわけです。

 ところが、その自然というものはとんでもない暴れん坊で、できたら、もうちょっとおとなしくしてもらいたいという、これもまた一つの精神の形なわけです。

 この二つの精神の形が、矛盾したままで矛盾しないという、つまり併存してしまうということなんです。この形を持ってきたのが、日本の社会ではないかと思うんです。

 ですから、共同体との関係においても、共同体というのはありがたいもんで、これは絶対になくしていけないもんだ。大事にしなくてはいけないもんだ。こういう精神を持っているのに、傍ら、共同体というのはうっとうしいもんだ。この精神もまた持っている。

 というふうに、一つの真理が出てくる精神構造ではなくて、幾つもの精神が併存をする。そういう精神構造を持ちながら、その多数の真理の中で、どういう折り合いをつけるか、その折り合いのつけ方が、だんだん巧妙になっていくといいますか。ここらへんが、日本的精神の一つの特徴だと思うんです。

 ヨーロッパ的な精神を、例えば合理主義という言葉で表現した場合に、日本的精神は何とか主義的である、という言い方をする人がいます。例えば、日本人は集団主義的であるというように。ああいうのは、すべて間違いだというふうに思っています。というのは、日本的な精神というのは、実は多層化されている。多層なものが重なっているということです。

 ですから、決して一本ではあり得ない。それは日本的な自然の中で生きてくれば、一本ではあり得ないような精神がつくられてくる、ということです。

 どういうことかと言いますと、例えば、日本人は集団主義的であるとか、もともとの共同体的な性質を今でも引きずっているとか言う人たちがいるわけです。

 それは一面では、そうなんです。つまり、もともとは共同体と共に生きてきたわけですから、みんなで生きていく。ある面では、個人が突出しないで、みんなで横並びで生きていくと言ってもいいですけれども、そういう性格を一面では持っているわけです。

 だけど、それがすべてかというと、そんなことはないわけで、日本人ほど個人主義的な人間はいない、という一面もあるわけです。

 その個人主義というのは、どこで出てくるかというと、さっきは共同体との折り合いのつけ方で、技を身に着けることによって、多少、自由な個人になるという言い方をしましたけれど、そのレベルではなくて、「突き詰めていけば、われ一人」という世界を日本人というのは持っているということです。

 最初に紹介した親鸞でいえば、親鸞は晩年にこういうことを言うわけです。「突き詰めてみれば、阿弥陀さまはわれ一人のために存在する」と。

 つまり、衆生を救うための阿弥陀さまが、突き詰めれば「わが親鸞一人のためにのみある」という個人主義です。この性格を日本の社会は持ってきた。

 ただし、この場合の「突き詰めれば、われ一人」という、この徹底した個人主義というのは、現実的世界の中で発生する個人主義ではないわけです。

 現実的な世界の中においては、むしろ共同体と共に生きていくわけであり、そこにちょっとうっとうしさがあるならば、技を磨くことによって、ちょっと自由な個人主義という、これは、あくまでちょっとなんですけれど、そういう折り合いのつけ方、これが現実的な世界です。

 ところが、現実を超越した人間の有り様というものを見ていくときに、そこには、もはや共同体もなければ、家族もない。つまり自分の、いわば魂だけが純粋に存在している世界、そういうものを同時に見る。

 この世界においては徹底した個人主義、まさにわれ一人の世界だというわけです。そういう世界を形成する。

 これは、言葉として言うならば、「生きるも、死ぬも、われ一人」という言葉として出てくるわけです。

 こういう精神のあり方というのは、日常生活の中にも出てくるわけで、例えば、今でもそうですけれども、口を開けば、「会社とは、そういうところではない」と、まさに共同体主義的なことを言っていたサラリーマンが、ある日、突然にプツンと切れてしまうと、「生きるも、死ぬも、われ一人」みたいな感じになって、辞表をたたきつけてしまったり、場合によっては、家族も捨ててしまうということが発生するわけです。

 これは、やはり日本人の持っている一つの伝統であって、どこかに、極限におけるわれ一人の世界というものを見ていて、しかし、現実に生きていく世界においては、むしろみんなと共に生きていく世界を見ている。

 だから現実世界で、いきなり、そういうことをするのが、いいのか悪いのか知りませんけれども、現実的な世界の自分と、現実がどうあろうとも変わることのない、いわば超越的な自分というか、超越的な自己というものを持っている。

 それを言葉としては、魂の世界とか、霊魂の世界とか言ったとしても、差し支えはないわけですけれども、そういう現実の絡みをすべて切り捨ててしまった、最後に残っている純粋な自己といいますか、その世界を見つめたときには、「突き詰めてみれば、われ一人」という世界にたどり着いていく。

 それを徹底した個人主義と言ったんですけれど、その徹底した個人主義的な精神の持ち方と、現実の中において、折り合いをつけながら、共同体と共に生きていくという精神の持ち方というのは、何も矛盾しない形で、また多層的精神として併存をするということです。

 今でもそうですけれど、日本人というのを完全に怒らせてしまうと、折り合いがつかなくなる。完全に怒ってしまっているときというのは、われ一人の世界に戻ってしまっていますから、そうなると、どんな説明をしようが、慰めを言おうが、もう折り合いはつかないという、そういう一面を持っています。

 ところが、普段の世界では「もう適当にやりましょうね」なんていうことを平気でやっている。この両面を何の矛盾もなく、伝統的に持っていたということです。

日本人は構造を超越した純粋的世界と、構造的世界の、二つの精神の間を往復してきた

 ここで、再び「自おのずから然しかりなり」の世界についてお話ししたいのですが、「おのずから」の世界というのは、「おのずから」という論理があるわけではないわけです。だから、まさに合理的な世界ではないわけで、つかむしかない世界なんです。だから、つかめなければ、つかめないということなんです。

 にもかかわらず、かつての日本の人たちは、それをつかんでいた。なぜつかんでいたかというと、やはり地域共同体の中に生きていたからなんです。

 つまり、自分の生きている世界の中においては、何が「おのずから」の世界なのかが見えるということなんです。

 僕は、上野村に半分いるもんだから、何が「おのずから」の世界なのかというのが、やはり見えるんです。

 つまり、上野村の自然が、どんなふうに毎年、展開しているのか。やはり、この自然のあり方に逆らうのは、いけないんだということが、具体的に説明しろと言われると非常に困るんだけど、感覚としてはよく分かる。

 それからまた、上野村においては、やはり、土を耕して、種をまいていないといけない。これもやはり「おのずから」の世界なわけです。

 それから、昔とは共同体の性格も、もちろん変わっているでしょうけれど、例えば、隣のお年寄りが病院に行きたいんだけど足がない、という話になれば、とりあえず時間のある人が病院に運ぶぐらいのことは、そんなの当たり前でしょうと。こういう点でも「おのずから」の世界。

 それだけじゃなくて、さっき言ったように、8軒がぎゅうぎゅうになっていますから、「これ以上、踏み込むとまずいよね」という、そういうあり方といいますか、つまり、距離は置いているようなあり方も、まさに「おのずから」ですが、自分の地域社会において、よく見えるわけです。

 だから、上野村という村を足場にして語るときに、僕は「おのずから」の世界を肯定的な世界として見ています。

 それに対して、知識人たちというのは、伝統的に共同体を捨てた人間たちであったわけです。共同体を捨てた人間たちは、いわば漂流者ですから、漂流者たちは「おのずから」の世界の必要性を感じながらも、その「おのずから」とはどういう世界なのか、それをつかみきれない世界の中で生きていたということです。

 だから、自分の生きている世界の中には、「おのずから」が見えにくい。その点で、否定的世界が広がっていて、その否定的世界、つまり自分の生きている世界を否定することを通して、思想的に「おのずから」という世界をつかむという行為をせざるを得ないわけです。だから、ここにおいても、思想家たちに現れてくる日本思想と、民衆の日本思想というのは、絶対に違うわけです。

 それは、古代の昔から、だいたい思想的な言行を残した人なんていうのは、親鸞を含めまして、「おのずから」の世界を失った人なわけです。

 そういう人たちが、必死の努力をして、親鸞でいえば、晩年において「自じ然ねん法ほう爾に」なんてものにたどり着いていくわけですけれど、それでもやはり、自分の生きている世界に「おのずから」の世界はないわけです。

 だから、一人の探究者として、非常に苦しんだ末に、阿弥陀さまというのは自然(じねん)の世界だったんだということにたどり着くわけですね。

 ところが、村々で生きている人間たちは、そんな苦しい努力をする人は全くいなくて、普通に生きていれば、「おのずから」の世界なんて分かりきった世界ということになります。つまり、「自然とは何か」と聞かれれば、「この生きている世界でしょう」と簡単に答える。では、「そこにおける人間とは何か」と問われれば、「この歴史的に行われてきた営みでしょう」と、簡単につかむことができる。

 だから、僕が見たい日本的精神というのは、その点では、思想家たちが語ってきた日本的精神とは、ちょっと違っていて、結局、思想家たちがたどり着きたかったものを、村の中でとらえ直すという作業をしないと、見つけ出せないものではないだろうか、という気がしています。

 そういうふうに、「おのずから」という世界は簡単に分かる、簡単につかめるという人たちにとってみると、実は「おのずから」の世界もまた二重性を持っているわけです。

 つまり、構造的な「おのずから」の世界と、構造超越的な「おのずから」の世界です。

 構造的な世界、つまり現実的な世界というところでは、「おのずから」の世界というのは、まさに自然(じねん)の世界であり、共同体の世界に内蔵されているわけです。

 ところが、さっき言った「われ一人」の世界が出てくる、構造をすべて超越したところに、もう一つの「おのずから」の世界が出てくる。

 それが、さっき言った「生きるも、死ぬも、われ一人」というような純粋世界です。

 だから、構造を超越した純粋的世界と、構造的世界の両面を「おのずから」の中で押さえながら、その二つの精神の間を往復するといいますか、あるいは併存させるというか、この複雑なことを、ごく自然にやっていたという気がします。

日本の精神というのは、一元的な精神ではなく、多層的な精神としてあった

 ただ、言っておかなければいけないのは、「おのずから」という世界が見えるとするならば、それは自分が生きているローカルな世界にしか見えない、ということなんです。

 それを僕は、日本的精神と呼んでいるんだけれども、実は、この日本的精神というのは、すべてローカルな世界の中において展開する精神なのであって、決して、日本的とかいう言葉にふさわしいものではない、ということなんです。

 で、そのローカルな世界を失った人たちというのは、さっき言ったように、漂流者であり、それは結局、「おのずから」の世界をつかむことができないままに、偉い人になってくると、非常に苦闘を重ねて、自分の思惟の中で「おのずから」の世界をつかもうとする。たいへん苦労する羽目に陥るということです。

 それに対して、ある意味では、あっけらかんと「おのずから」の世界をつかんできた人たちがいる。それはまさに、このローカルな世界の中で、ローカルな自然と、ローカルな共同体と共に生きてきた人たちが、そこにいたということです。

 ですから、その人たちは二つの永遠の世界を見ていたわけです。つまり、自分が生きている現実的世界における永遠性です。それは、まさに自然(じねん)の世界であり、そして共同体の世界であり、自分のほうにもっと引き寄せれば家業の世界であり、こういうところに一つの永遠の世界を見ていたわけです。

 もう一つは、突き詰められた「われ」の世界の永遠性というのも同時に見ていたわけで、この突き詰めた「われ」の世界における永遠性、ここに普遍の世界を見ていた。

 さっきの親鸞の話でいえば、突き詰めれば、阿弥陀さまは「われ一人」のために存在する。まさに、ここに普遍の世界があるわけです。

 そのことを見つけ出したことによって、逆に、すべての「われ」たち一人のために、阿弥陀さまがいるわけですから、衆生を救うということになるのかもしれません。

 今回は、題材として、けっこう親鸞を使ってきたのですが、親鸞が書いたわけではないけれど、有名な本に『歎異抄』という本があって、唯円という人が、親鸞上人はこうしゃべっているという形で書いた本です。

 あの中には、幾つか有名なものがあって、例えば「悪人正機」説。「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」というものです。

 ご存じの方も多いでしょうけれど、一般人の観念としては、逆であってくれれば分かりやすい。つまり、「悪人でさえ、往生を遂げられるんだから、善人は遂げられますよ」という話なら分かりやすいんだけれど、「善人でさえ、往生を遂げられるんだから、悪人が往生を遂げられないはずはない」という文章になっていて、非常に魅力的でもあり、非常に論争を生んだ一節でもあるわけです。

 「悪人正機」説については、これが議論され始めてから、幾つかの解釈が出てきていた。

 いちばん初めの解釈というのは、言葉どおり、悪い人という意味合いで解釈された。これは、どういうふうに理解したかというと、善人として生きてきた人たちが、「おれも問題があった。阿弥陀さまに救いを求めよう」と、自分にも問題があったなと感じたときの深さです。それに対して、悪人として生きてきた人たちが、「おれには問題があった」と、こう思ったときの深さというのは、それはもう悪人として生きてきた人たちのほうが深いわけで、その深い痛恨の思い、それを阿弥陀さまが救ってくれないはずはないでしょう、という意味です。

 そのうちに新解釈が出てきて、悪人というのは悪い人という意味ではなくて、あの時期において悪人と言われた人たち、それは命を取る仕事をしていた人たちといいますか、だから、一つは武士なんですね。もう一つは、猟師とか、殺りくを生業とするというか、そういう人たち。

 その人たちが、ある意味で、さげすまれて……武士は別ですが、そういう人たちを当時は悪人という言い方をしたので、畑を耕している普通の人たちも往生を遂げることができるけれども、そういう人たちも……当時としては、少し差別されていたけれども、いや大丈夫ですよと。悪人というのは、そういう生業を持っている人たちだというのが、次の解釈として出てきた。

 その次には、戦後、活発になったのは、その悪人というのは、被差別部落民を指すという解釈が、かなり盛んになってきて、家永三郎なんかも言ったし、今でも、その説を受け継いでいる人たちはたくさんいますが、そういう社会階層として差別されてきた人たちに対する救い。そういう苦しい立場に追い込まれてきた人たちこそ、最も阿弥陀さまは救い出すんだと、解釈をされるようになったという経緯があります。

 僕自身は、そんなこと研究しておりませんので、気持ちだけ言うと、どれも正しいと思います。だけど、そういうことを問題にしているのではないんじゃないかという気がします。

 なぜかというと、日本思想において、究極的に救われていく純粋なる精神というものは、もはや構造的世界を持たない。

 だから、差別されている世界というのは、現実的な構造的な世界ですし、当時の悪行を生業としたと言われた、例えば猟師とか、そういう人たちの場合でも、これは現実世界の生き方の中の構造的な世界の中で、そういう位置付けを受けた人たちです。

 さらに言ってしまうと、一般的な意味で、悪人とか、善人とかいうものも、現実の構造的な世界の中で生きているがゆえに、悪人になっていたり、少しましな善人になっていたりという、そういうことです。

 つまり、構造的な世界の中で生きているものとしては、当時の世界でいう悪い人も出てきたでしょうし、あるいは差別されている人たちも出てきたでしょう。

 だけど、構造的な世界なんか、すべて意味を持たないという、つまり、構造が解けた純粋な「われ」の世界です。それを救済するところに、もともとの日本的な神仏の世界というのはあるわけです。構造的な世界の中で、悪人とは何かというのを解釈し合うというのは、何か違っていないかという気持ちです。

 だから、構造的な世界の中で解釈するならば、もしかすると、そのどれもが正解かもしれない。だけれど、日本の精神というのは、そういう一元的な精神じゃないということです。むしろ多層的な精神として常にあった。

 その多層的な精神は、折り合いをつけながらも、最後は矛盾をはらんでいくという、こういうことであったのではないかという気がしています。

 今、われわれは、あまりにも一元的な意味で、真理が存在するという中にいますから、世界でもいろいろなトラブルを起こしてしまうわけです。

 むしろ、多層的な形で、いろいろな精神が併存しながら、折り合いをつけながら、しかし最後は矛盾が残る。その中に人間のあり方というものを見つけ出していったほうが、出発点としてはいいのかなという気持ちもしています。

 それから、そもそも、こういう精神のあり方というのは、ローカルな世界を舞台として成り立っているものであって、だから、民衆における日本的精神を見ていくならば、いちばん、相反するのは国家主義です。

 それなのに、国家主義的なものと、日本的なものというのが、安易に結合して語られていく、この近代の世界の虚性というものも、ここらへんからつかみ直せるかもしれないと考えています。(了)

かがり火No102 p36掲載記事

埼玉県志木市の大胆改革
穂坂邦夫市長インタビュー
「行政サービスは、公務員だけの仕事ではない」

“改革なくして成長なし”は小泉首相ご自慢のキャッチフレーズだけれど、このごろではすっかり色あせてしまった。“自民党をぶっつぶす”も“聖域なき構造改革”もしりすぼみで、お得意の絶叫にも国民はしらけ気味である。国を改革するというのは、それほどの難事業で、ちっとやそっとでは変えられないものらしい。

 ところが、最近では地方のほうが目覚ましい改革の実績をあげている。国が図体が大き過ぎてもたもたしている間に、地方のほうが、よっぽど日本の将来の有り様を洞察し、大胆な改革を進めている。

 埼玉県志木市の穂坂邦夫市長は、平成13年7月の市長就任直後から、次々に斬新な改革を打ち出し、全国の自治体から注目を浴びている。右肩下がりの経済と少子高齢化社会に対応するためには、穂坂市長の革命的構想力は欠かせないのではないか。

穂坂邦夫市長の信条は、清潔な政治。「個別の政治活動や行政にかかわる政治献金は一切受けない。飲食等の接待は受けない、接待もしない。企業や団体の利益に関する政治活動は一切行わない」と宣言している。

●市民が職員と同等の仕事をする“行政パートナー”

 志木市役所の玄関を入った瞬間に、正面に座っていた案内係が立ち上がって、「どちらへ?」と笑顔で問い掛けてきた。市役所を訪れた市民が、迷わずに目的の窓口に行けるように案内しているのである。まるでデパートのようだと評する人もいるけれど、聞かれたら答えるデパートと違って、案内係のほうから声を掛けるのだから、デパート以上かもしれない。市役所のあちこちに「日本一親切な市役所を目指す」というポスターが張ってあったが、なるほどと納得する。

 案内係は職員ではない。志木市自慢の、行政パートナーである。最近では他の自治体でも、業務をアウトソーシングしたり、下請けに出したりしている例は少なくない。しかし、志木市の行政パートナーは、単に人手不足を補うという発想ではなく、これからの市の運営の主要なスタッフと位置付けている。

「目指しているのは、行政は公務員によって運営されるという神話を壊すことです。市役所の仕事は、すべて公務員でなきゃいけないっていうことはないんです。国の財政はますます厳しくなるだろうし、市の税収も大きく伸びるということは考えられません。徹底的なコ

職場に緊張感が漂っている志木市役所。
●ほさか くにお/1941年、埼玉県志木市生まれ。69年、埼玉大学経済短期大学部卒業。埼玉県職員、足立町(現志木市)職員を経て、志木市議会議長、埼玉県議会議長を歴任し、2001年7月、志木市長に就任。学校法人医学アカデミー理事長。医療法人瑞穂会城南中央病院会長。著書に『どの子も一番になれる』(幻冬舎、2004年)、『自治体改革第6巻』(ぎょうせい、2004年)。ストダウン、ローコストの運営を図るために、志木市は正規の職員を、20年間は新採用しないことに決めました。退職者が出ても補充しないということです。その代わりに、自分の経験と余った時間を生かして、積極的に市の仕事に携わりたいというボランティアを採用し、今まで職員のやっていた仕事を分担してもらいます。市の業務を市民とワークシェアリングするわけです」と穂坂市長は説明する。

 行政パートナーは有償ボランティアで、1時間700円の時給である。正規の職員に比べれば、圧倒的に安い。この制度は、市民を下請けとして安い賃金で使うシステムではないかという陰口も聞かれるが、そんなセコイ発想ではないと市長は言う。

「市民にアンケートを実施したら7割の人がこれくらいの時給でいいという答えでした。市民は、自分たちができることは自分たちでやることによって、税の負担は軽いほうがよいという健全な経営感覚を持っているんです。行政パートナーは、市と対等の共同運営者です。行政パートナーが市に入って、税金の無駄遣いに気付いたら、どんどん提言してもらいたいと思います。これによって職員のほうも啓発されて、意識改革が進むと思います。下請けどころか、市民参加です」

 当然ながら、市民が役所にあれをやってくれ、これもやってくれと必要以上に注文すれば、それだけ経費が膨れ上がって、結局、市民に負担が掛かる。その理屈を志木市民は十分に理解しているのだ。

 行政パートナーは、職員の1・5倍を採用する方針だという。つまり、職員が10人退職したとすれば、15人の行政パートナーを新たに採用することになる。この制度を続けていけば、2021年には正規職員301人に対して(平成16年の7月現在で正規職員は588人)、行政パートナーは523人となり、その間のトータルで67億円の経費が節減できるという。

 ちまちました削減策では間に合わない、かくのごときコペルニクス的大転回を図らない限り、地方は自立できないという穂坂市長の判断があった。

 具体的には、行政パートナーは、市が個人と業務委託契約を結ぶのではなく、新しくNPOを立ち上げて、そこに登録してもらい、人的ローテーションはNPOに任せていくシステムだという。

行政の原点は「村落共同体」の精神

 穂坂市長の口癖は、「どんな時代になっても、行政の原点である村落共同体を忘れてはいけない」である。

 市と市民は、もともと親しい関係にあるはずのものが、市役所が中央集権体制に組み込まれ、組織が肥大し、仕事の内容が複雑になって、市民との距離が遠くなってしまった。行政は市民から乖離し、市長は権威や権力のあるお偉いさんになって、近づき難い存在になってしまった。市の職員も、市民の一段上にいるというイメージになってしまった。この誤ったイメージを壊して、本来の一体感を取り戻そうというのが村落共同体の精神である。

「昔でいえば、川に橋を架けなければいけないときは、男は山から木を切り出し、女は縄をなって、というように自分たちですべてやってきた。この原点に戻って、志木市は市民が運営する村落コミュニティーとしてやっていくということです。市長は市民から給料をもらっているのだから、あくまでも市民がオーナーで、私は市民から雇われているわけです。市の運営を委託された支配人にすぎないんです。つまりシティマネジャーというわけです」

 この村落共同体が重要だという感覚は、そのまま、志木市の地域コミュニティーを濃厚なものにしていかなければいけないという思想に結び付いている。

「私は、地域コミュニティーのないところは人間の住む場所ではないと思っているんです。六本木あたりの高層ビルに住むというのは、あくまでも仮の住まいであって、本当の住まいではないという気がするんですね。経済成長の社会は企業コミュニティーの時代だった。仕事もゴルフも、麻雀も、一杯飲んで議論をするのも、人間関係もみんな会社中心でした。いま、その企業コミュニティーが崩壊したのだから、地域コミュニティーを再構築しなければいけないと思います」
確かに、時代の方向性はそうかもしれない。しかし、現実に東京近郊のベッドタウンといわれる都市にどれほどの地域コミュニティーが存在するのだろうか。何しろ、住民の9割は地元生まれではない。地方出身者だったり、他から移転してきた新住民だ。大抵の場合、職場は都心にあり、家には寝に帰ってくるだけ。一般的に学歴は高く、知識も情報も豊富で、権利意識が強く、理屈っぽい。例えは悪いが、口の達者な評論家のような住民が多いのである。

「高度経済成長の時代は確かに、東京の近郊都市からは地域コミュニティーは失われていたと思いますよ。しかし、新住民といっても、今や30年も40年も暮らしている人たちです。一生懸命働いて、ローンを払ってマイホームを建て、ここで子どもを育ててきた人たちですよ。地方出身の人たちであっても、今さら田舎には帰れないという人が大部分でしょう。志木市こそが自分のふるさとだという意識は強くなっているはずです。そのふるさとのために、何らかの貢献

市本庁舎総合案内窓口は、有償ボランティアである行政パートナーが担当している。67をしたいと考えている人が多いと思います」

 濃厚な地域コミュニティーがあってこそ、行政と市民の協働が生きてくるという認識であった。

市民の協力を得るために、徹底的な情報公開を進める

「市民が主役」は、多くの地方自治体が掲げているキャッチフレーズだが、大抵の場合、建前だけのお題目に終わっているところが多い。

 志木市のいう「市民本位の自治体運営」は半端じゃない。2001年10月に施行された「志木市市政運営基本条例」は、その代表的なものである。基本理念には、「まちづくりは、市民自らが主体となって考え、行動し、市民及び市が協働して推進することを基本理念とする」とある。

 この理念を受けて発足したのが、第二の市役所と呼ばれている、市民委員会である。

 市民委員会は、市のすべての事業を見直し、独自の予算案を作成し、調査研究や提言を行う高度な役割を担っている。

「市民の中には、大手企業のビジネスマンや大学の先生、財政や金融、コンピュータの専門家など、優れた知識や経験を有している人が少なくありません。その方たちの能力を市政に反映してもらいたいと考えたのが市民委員会です」

 この市民委員会は、将来、市役所を徹底的にスリム化して、ぎりぎりの少人数で運営していくために発想されたシステムである。

「市民委員会のメンバーを公募しようとしたとき、120人程度の市民の参加が欲しいと思ったのですが、果たしてそれだけ集まってくれるかどうか不安もありました。しかし、実際には252人の応募があったんです。志木市を少しでも良くするために市政に参画しようという人が、予想以上に多かったことに感動しましたよ」

 志木市に敬服するのは、市長の政治手腕もさることながら、市民の熱意である。どんなに市の企画力が優れていても、もし市民の応募がなかったら、市役所の独り善がり、絵に描いた餅になってしまうからだ。

 志木市では、この市民委員会の構想を告知するために、広報誌やインターネットではもちろんだが、市内の東武東上線の志木駅と柳瀬川駅の駅頭に職員が立って、チラシを配布した。職員の熱意が市民に伝わった結果の252人だった。

 市民委員会のメンバーは、毎月1回土曜か日曜に会合を開催し、3ヵ月に1回は平日の夜に会合を持つ。そして、市の政策を検証し、問題点を指摘し、市長に意見を述べている。市民を手弁当で、ここまで市にかかわる気にさせているものは何だろうか。

「情報公開です。すべてを市民の前にさらけ出して、市は本気なんだということを伝えることです。もともと市の行政には、市民のプライバシーに関する個人情報や賦課徴税以外に、秘密にしておかなければならないことなどはそう多くはないんです。市民の協力を得るためには、市長の交際費を含めてすべてを公開しています」

 志木市は情報公開度が埼玉県の中で、トップである。

 当然のことのようだけれど、私腹を肥やそうとしている首長なら、とても情報公開はできまい。情報公開をするというのは、市民から重箱の隅を突つかれるようなことがあっても、やましさは一切ありませんということの表明でもあるのだ。

 情報を出し惜しみしたり、都合のいい部分しか公開しないのでは、市民は疑心暗鬼になって引いてしまう。志木市のように、きれいさっぱりすべての情報を進んで公開することによって、市民は市役所の真剣さを感じ取り、それなら自分たちも、仕事の時間を犠牲にしてでも市のために協力しようという気持ちが芽生えるのだろう。

 市民委員会は、市役所の組織と連動していて、企画、総務、生活環境、健康福祉、都市整備、教育、病院・水道、合併、IT(情報技術)といった9つの部会がある。合併とITは、市民委員会独自の部会だ。この部会がどんな機能を果たしているかの例を示そう。

 一昨年、図書館などの複合施設に導入する小学生用のパソコン80台の予算が市民委員会のIT部会に提示された。当初の見積もりは1台当たり42万円。「そんな高いものが必要か」とIT部会のメンバーが疑問を呈した。市の担当者は「市販のものは信頼性が薄いので、市役所では企業用のパソコンを使用している」と説明した。しかし、IT部会のメンバーは「小学生が慣れ親しむぐらいなら、市販のもので十分」として、付属品などを削り落として1台17万円余の落札となった。

 一般的に官公庁に備品等を納入しようとする業者は、同じ商品でも金額のいちばん高いものを買わせようとする。どうせ予算で購入するのだからと、役所の懐を計算に入れて売り付けようとする。また、それがすんなりと通ることも多い。しかし、このIT部会は、コンピュータの専門家や情報機器に通暁している人で構成されていたから、当初の説明では、了解とはならなかった。ずさんな随意契約で、使用もしない機器を購入していた社会保険庁のケースなどとは大違いの厳正さだ。

 もう一つの例は、市のプール問題だ。老朽化したプールを市は閉鎖しようと考えた。いまは民間に立派なプールがある時代だから、市営プールを持つこともないだろうという判断だった。市では改修するにはどれだけのお金が掛かるか、新築するにはどれだけの予算が必要かを明示して、議会に諮った。どの会派もプールは存続するべしという意見だった。ところが、市民委員会では、市営プールが必要とされる時代は終わった、その代わり、小・中学校のプールを市民に開放すればいいじゃないかという意見が大勢を占めた。議会と市民委員会の意見が分かれた。そこで、3千人の市民アンケート調査を実施した結果、8割以上の市民が不要であるとの回答もあり、結局、議論を積み重ねた結果、市営のプールは廃止するという結論になった。ここでも市民委員会は大きな力を発揮したことになる。

 このように、市民委員会は、市長が市民の意見を参考までに聞き置くというぬるいものではない。市政に直接影響を与える重要な役目を担っているのである。

「議会と役割が重複するのではないかという意見もあるのですが、実際は違います。議員さんたちは市民の要望受付係となっているところがあるし、党派があるから、まったくの白紙で議論できない場合がある。選挙があるから、しがらみもあるかもしれません。市民委員会のほうが純粋に議論できる場合があるんです」

 現状では、決して議会を軽視するものではなく、お互いがバランス良く機能しているということだ。

決断即実行のスピードは、中央官庁の上をいく志木市

 志木市の目指す小さな自治体のための改革は、行政パートナーや市民委員会だけではない。教育、福祉、環境、公共事業などすべての部門で、改革を進めているので紹介しておきたい。

★25人程度学級

 (2002・4・1実施)

 小学校1、2年生を対象に、クラス編成の基準を、1クラス40人から25人程度で編成した。先生の目が児童全員に行き届くためには、この程度の人数がベターということだ。

★ホームスタディ制度の導入

 (2002・4・1実施)

 学習意欲はあるものの、不登校の状態にある児童・生徒に対して、学習の場所を学校に限定しないで、学校以外(児童・生徒の自宅を含む)の場所に、有償ボランティアの教師を派遣し、学習の機会を広げるというもの。

★「リカレント(環流)教室」事業

 (2002・6・1実施)

 社会に出てから、もう一度学校に戻り、小学校4年生から中学校3年生までの学習内容を再び勉強できる制度。

★公共事業市民選択権保有条例の制定(2002・7・1施行)

 1億円以上の公共工事は、すべて予算化前に計画を公表し、市民の意見を反映させるため、審査会(志木市公共事業民意審査会=公募市民、識者、事業に関係する地域の代表で構成)を設置して、その意見を踏まえたうえで最終的な事業実施の是非を決定する。

★志木市自然再生条例の制定

 (2001・10・1施行)

 公共事業によって失われる自然を、ミティゲーション(環境への影響緩和)の手法によって、保全・再生することを定めた条例。

 どの項目をとってみても、斬新なものばかりだ。本誌の読者で、特に公務員の職にある方には、ぜひ志木市の政策を掘り下げて勉強することをおすすめしたい。地方自治の根幹について、目からウロコが落ちるような新鮮さを感じるに違いない。

 また、志木市は構造改革特区にも、コロンブスの卵的な発想で、多くの提案を申請している。例えば、「地方公務員における勤務条件の弾力化」は、公務員に兼業を認めてほしいというものだ。市役所に勤めながら家業の農業や店、事業などが行えるようになれば、市職員としての給与や退職金は減っても、そのような勤務形態を希望する人が出てくるかもしれない。それに応じて行政パートナーに委託する業務が拡大できる。つまり、人件費も削減できる。また、採用についても任期付き職員の採用を申請した。採用した職員をすべて定年まで雇用しなければならないとすると人事の硬直化を招く。必要になったときに、必要な期間内での採用を可能にしてほしいというものだ。ほかに「市町村長、収入役の必置規程の廃止」「複数年度予算の導入」「教育委員会必置規程の廃止」など、どれをとっても志木市の提案する改革案は大胆だ。

 しかし、目の前に並べられてみれば、「うちでも前々から考えていた」という感想を持つ自治体も多いのではないか。多くの自治体でも、その矛盾や不合理をうすうす感じていたが、役所の前例主義の前に見過ごしていたのではあるまいか。その前例を破って、一歩を踏み出した志木市の功績は大きい。

 日本がいや応なく、少子高齢化社会に突入し、経済も右肩上がりになることはないとすれば、志木市の改革案こそ、地域社会の希望の星だ。本誌の持論である「地方から国を変える」が一層リアリティーを持つようになってきた。志木市の概要

 面 積 9.06?2

 人 口 6万7002人

     (平成16年7月1日現在)

 世帯数 2万7271世帯

 職員数 588人

 予算額 174億4100万円

     (平成16年当初予算)

市民委員会の発足式。優れた能力と豊富な経験の持ち主たる市民が積極的に行政に参画してくれるのは、志木市の貴重な財産である。

かがり火No101 p4掲載記事

合併の新市名を公募で決めるのは
愚の骨頂だ。「古くからの地名を消すのは、文化財の破壊に等しい」と、谷川彰英教授。(たにかわ あきひで)

 1945年長野県生まれ。東京教育大学教育学部、同大学院を経て、現在は筑波大学教授。柳田国男の教育思想研究で博士の学位を取得。専門は教育学だが、地名研究、マンガ評論、食文化研究等、活動は多彩。地名に関する著書に『地名の魅力』(白水社)、『京都 地名の由来を歩く』(KKベストセラーズ)などがある。

筑波大学 谷川彰英教授に聞く

  昭和60年度以降、今年の4月1日までの間に、合併によって35の新しい市と町がつくられた。来年3月末の合併特例法の期限までに、合併にはますます加速がつくだろうから、多くの新しい市が誕生するに違いない。

 合併の是非はここではおくとしても、本誌がどうにも気になって仕方がないのは、新しい市の名称である。昨年は南アルプス市というカタカナ交じりの市が生まれた。今年は四国中央市である。新しい門出にけちをつける気はないけれど、このような名称がどんどん増えたとき、日本の地名はいったいどうなってしまうのだろうと心配になる。

 本誌は地名を安易に変更するのは、わが国が植民地支配のために行った創氏改名に匹敵する歴史的愚行だと指摘してきた。犯罪的ですらあると思っている。しかも、この新市名は、公募という“民主的な”手続きを経て決められているので、いっそうたちが悪い。新しい市名を決定するとき、民主的というのは果たして正しい方法なのだろうか。

 筑波大学の谷川彰英教授は早くから、「古くからの地名を消すのは、文化財の破壊に等しい」と警鐘を鳴らしている。

日本の地名の8割は、地形から来ている

 日本は世界に冠たる地名の宝庫だと、谷川教授は言う。たった一つの地名から、その地域にまつわる歴史や文化、風俗、伝承、生活、文学、音楽などまで引き出すことができるのに、それをいとも簡単に変更したり消滅させたりするのは、浅慮極まりないことだと憂慮する。

「例えば、日本の地図とアメリカの地図を比べてごらんなさい。日本の各県の境界線は入り組んでいるし、市町村になるといっそう複雑です。これは稲作の影響で、日本の隅々まで耕されていることから来ているのです。アメリカは長方形や四角形で、単純な直線ばかりでしょう。それだけ日本のほうは人々の暮らしが土地と密着し、それぞれ独自の文化をはぐくんできた証拠なんです。地名の多くは民衆の生活の中から自然に発生したもので、それゆえに小さな地名の一つ一つに人々の思いや願いが込められているのです」

 また、日本人の名前もほとんど地形に関係しているという。なるほど考えてみれば小泉も岡田も小沢も田中も、野茂も松井も、中田も小野も地形と深い関係にある。日本の地名や姓は、地形を発祥としているのである。

 新しくできる市の名称を歴史的背景も地形的由来も無視して命名するのは乱暴過ぎるのである。

「明治22年に市制・町村制が敷かれ、およそ7万あった市町村が1万7千になり、昭和28年には、町村合併推進法が施行されて、その数が約3千数百になりました。今度は平成の大合併になるのですが、そのたびに貴重な地名が消えていったのです」

 さらに、昭和37年に住居表示に関する法律で、由緒ある町名が消えてしまったのは最悪な政策だったと谷川教授は慨嘆する。この法律で、大工町、久右ェ門町、黒門町、木挽町など民衆の暮らしの息吹が伝わっていたゆかしい町名が消滅し、味もそっけもない何丁目何番地何号となってしまった。郵便配達がしやすいという理由からだが、取り返しのつかないことをしてしまったものである。

 それでも強力に住居表示の変更に反対した地域の地名は残っている。〈新・浪漫亭〉のある市谷柳町、その界隈の市谷薬王寺町、箪笥町、住吉町、市谷鷹匠町、弁天町これらの地名が生きているおかげで、われわれは夏目漱石や樋口一葉を読んでも当時の町並みを想像することができるのである。これが、何丁目何番と付けられてしまっては、地名は単なる記号となってしまう。

「原則的に地名は漢字であるべきなんです。平仮名やカタカナは、できるだけ避けるべきです。漢字は表意文字ですから、その漢字からその土地の由来を推測することも可能です。まともな感覚の持ち主なら、『さいたま市』をいい地名と思うはずがありません」

公募は新市名を決定する最良の方法ではない

「新しい市の名称を住民の多数決で決定するシステムは、地名の命名に限っては適していません。地名は人気投票でも、選挙でもないんです。新市名を選定するに当たっては、地名の専門家を入れて、識者の意見を聞くべきでしょう。少なくとも地名について、住民はもっと真剣に学ぶことが大切だと思います」と谷川教授は言う。語呂がいいとか、響きがいいという感覚で決めるべきではなく、その土地が古来、どんな呼称で呼ばれてきたかを調べ、その土地の歴史を推測できる地名を考えるべきなのだ。

 茨城県の岩井市と境町、猿島町を例にとって、新市名が決まるまでの経緯を概観してみよう。

 この1市2町は、平成17年3月22日の合併を目指して協議を続けているが、最大の難関になっていたのが新市の名称だった。法定協議会では、1市2町の住民から新市名を公募することにした。その結果、2553点の応募があり、これを「新市名称検討小委員会」が、採用の条件に合っていない747点を除外して1806点を第一次の市名候補とした。

 採用の条件に合っていないというのは、すでに他で市名として使われているものや、個人名を名称にしたもの、事業所名などと関連のあるもの、1市2町外からの応募も除外した。また、関係する1市2町名は、最初から候補にしないという了解事項があった。

 検討小委員会では頻繁に会合を重ねて、1806を66に、次に18へと絞り込んでいった。小委員会では候補が18点になった段階で、谷川教授と地元の郷土史家の二人の専門家を招聘し、意見を聞いた。

「私が諮問を受けた段階での18点の中に、絶対に推薦したいという地名はすでにありませんでした」

 委員会では谷川教授たちの話を聞いた後、さらに絞って、10点にして合併協議会に最終候補として提出した。下記は、その10点と選定理由である。

  1. 下総市(古代からこの地域一帯の名称で、由緒があり、親しみやすい)
  2. 坂東市(この地域は、歴史的にも古くから坂東と呼ばれ、坂東太郎(利根川)や坂東武者もイメージでき、関東地方の中心となる雄大で力強い新市を期待できる)
  3. 大利根市(1市2町は、利根川の恩恵を受けて発展してきた共通の歴史がある)
  4. 緑野市(1市2町は、緑が豊かで、お茶や野菜の産地であり、全国的に生鮮野菜産地としてアピールできる。漢字に重みがある)
  5. 利根市(1市2町は、利根川の恩恵を受けて発展してきた共通の歴史がある)
  6. 幸市(将来に向かって幸せな市となるようにとの願いが込められている)
  7. 将門市(中世武家政治の先駆けとなったこの地を代表する、歴史的に最も有名な人物の名にちなんでいる)
  8. みどりの市(1市2町は、緑が豊かで、お茶や野菜の産地であり、全国的に生鮮野菜産地としてアピールできる。平仮名はやさしい感じがする)
  9. むつみ野市(この地に暮らすすべての人々が限りなく未来に夢を抱ける〈夢積もる〉地域になってほしいとの願いが込められている)
  10. 西南市(1市2町は、茨城県の西南地域に位置し、地理的にも分かりやすい)

 この10点について、さらに検討を加え、最終候補として「坂東市」「緑野市」「将門市」の3点に絞り込んだ。最終選考はこの3つについて投票が行われ、「坂東市」に決定した。

 この選定過程を見ると、ずいぶん慎重かつ緻密に検討を重ねているようだけれども、選挙のもつ危うさと裏腹であることが分かる。

 候補作品には、まるで地場産品のネーミングと勘違いしているのではないかと思われるようなものあったらしい。

「岩井市を中心としたこの地方は、農業が盛んで、キャベツやハクサイやホウレン草などの出荷額が大きいので、緑野市とかいうものが最後まで残ったと思うのですが、地名の重要性を認識していない。その土地固有の歴史はどこからも推測できません。ただ単に音がいいとか響きがいいという、感覚的な付け方をしようとしているだけです。最終的に坂東市に決まったのは、最善とは思わないけれど、さすがに合併協議会の見識というもので、この候補の中ではいちばんの選択だったと思います」と谷川教授。

「幸市」や「むつみ野市」を付けたいという人の気持ちが分からないわけではないけれども、「幸せになりたい」「お互いにむつみ合って仲良く暮らしたい」という願望は、どこの市や町でも同じである。しかし、そもそも地名は他と識別できるというのが最低の要素なのに、その役割も果たしていない。

 どうも、日本人は地名に鈍感なようである。最近は、子どもの名前にも、まるで源氏名のような風変わりなものが多いが、地名までが軽薄な流行に左右されては困るのである。

地名は、その土地の歴史的履歴書である

 地名がいかに重要かについて、昭和11年に柳田国男は『地名の話』を書いている。

「最初の出発点は、地名は我々の生活上の必要に基いてできたものであるからには、必ず一つの意味をもち、それがまた当該土地の事情性質を、少なくともできた当座には、言い表わしていただろうという推測である。官吏や領主の個人的決定によって、通用を強いられた場合は別だが、普通にはたとえ誰から言い始めても、他の多数者が同意をしてくれなければ地名にはならない。親がわが子に名を付けるのとはちがって、自然に発生した地名は始めから社会の暗黙の議決を経ている。従ってよほど適切に他と区別し得るだけの、特徴が捉えられているはずである。ところが現在の実際はどの地方に往っても、半分以上の地名は住民にも意味が判らなくなっている。世が改まり時の情勢が変化して、語音だけは記憶しても内容は忘却せられたのである。

 過去の或る事実が湮滅に瀕して、かろうじて復原の端緒だけを保留して居たのである。もう一度その命名の動機を思い出すことによって、なんらかの歴史の闡明せらるべきは必然である。だから県内の地名はどのくらい数が多くても、やはり一つ一つ片端から、その意味を尋ねていく必要もあり、また興味もあるわけである」

「億を越えるかと思うこの我々の地名は、いかに微小なものでも一つ一つ、人間の意思に成らぬものはない。(中略)いわゆる人と天然との交渉をこれ以上に綿密に、記録しているものは他にはないわけである。これを利用もせずに郷土の過去を説こうとする人が、今でも多いということは私には何とも合点がいかない」

 また、地名学者の谷川健一も次のように書いている。

「地名は大地の表面に描かれたあぶり出しの暗号である。とおい時代の有機物の化石のように、太古の時間の意識の結晶である。地名を掘り出すことで、人は失われた過去にさかのぼる。そしてそこで自分の関心に応じて、地名から興味のある事項を引き出すことができる。地名は大地に刻まれた人間の過去の索引である」

 母国語を粗末にする国家は衰退するというが、地名を粗略にする国家もまた同じではないのか。自分の子どもには平仮名でもカタカナでも構わないが、地名だけはくれぐれも軽々しく扱ってもらいたくない。

かがり火No101 p8掲載記事

内山節氏の
哲学塾(中)日本的精神について

 5月、東京・四谷の居酒屋で開催された哲学塾、内山節氏の「日本的精神について」の続きを掲載します。

当初、上と下の2回の予定でしたが、録音テープを原稿に起こして整理したところ、2回では収まらないので、

上・中・下の3回に分けて連載することにしました。今回は、その2回目です。

自然を合理的につかめなくても、
折り合いのつけ方は知っていた。

 日本的精神というものをもう一遍、別な角度から整理してみようと思いますが、便利な文献として、和辻哲郎の『風土』という本を取り上げてみたいと思います。

 ちょっと乱暴に整理しますと、和辻は、この本の中で、世界を3つの類型に分けていて、その一つが、「草原地帯」という表現です。つまり、ヨーロッパ的世界のことですが、ヨーロッパを草原と言っていいかどうか分かりませんけれど、とにかく、日本よりも自然の力が弱い、生命力が弱い、そういうヨーロッパ的世界を、彼は草原的世界と呼んでいます。

 もう一つは、砂漠的世界、アラブ的世界と言い直してもいいかもしれません。三番目が日本的世界ですが、これを東アジアのモンスーン地帯という表現で扱っています。

 世界に、この3つの類型しかないというのは、甚だ乱暴ですが、ただ、そこで彼が言っていたのは、そういう自然がある地域に暮らしていた人たちが、どういう精神をつくったのかということを、その3つの類型から説明したわけです。

 ヨーロッパ的な自然、つまり、生命力があまりない自然の世界、そこで生きた人たちは、まず自然とは何かということを、客観的に見ることができたということです。

 例えばイギリスという国を見ると、森林における原生的な植物種というのは、だいたい日本の1割ぐらいですから、そもそも種類が少ないわけです。ですから、どういう植物が、どういう形で展開して、全体の森を構成していくのか、これは非常に分かりやすい。その森の中で、どういう生物が、どういうふうに生きていくのかも非常につかみやすい。

 だから、人間の外にある自然を客観的な体系としてとらえていくということが、やりやすい風土であるということです。

 だからこそ、ヨーロッパには生態学という学問が生まれたといってもいいわけで、自然の中のさまざまな生物が、どういう因果関係を持ちながら、全体として一つの体系をつくっていったのかということが、読みやすい世界だったということです。

 今は、生態学的というのはもっと広い意味で、かなりいい加減に使われているところがありますけれども、もともとは因果関係をすべて読み取った客観的な体系としてつかむ学問です。

 これを日本でやろうとすると、もう不可能に近いわけです。というのは、まず種類が多い。それから変動が激しい。

 ヨーロッパの場合は、気候が割に安定していますからいいわけですけれど、日本の場合だと、台風が来て、大雨が降って、洪水でも起これば、そこでまた自然体系が変容していってしまう。

 その変動の中で見ていかないといけないし、そのうえに、地面の中にいるバクテリアまでとらえていこうとするならば、ほとんど不可能というぐらいの、多くの生物が全体として一つの体系をつくっているわけで、恐ろしい数の研究員と、恐ろしいまでのお金を使えばできるかもしれませんけれども、大ざっぱにしか分からない世界にわれわれは生きている。

 ヨーロッパの場合には、自然体系が分かりやすい。だから、人間が理性あるいは知性で自然を客観的な体系としてつかむということが、発想として出てくる。

 自然と人間の関係においても、その、分かりやすい自然と人間とが、どういう関係で生きていったらいいのか。これも合理的につかみやすい。だから、ここにヨーロッパ的な合理主義が発生していく。

 人間中心主義的な発想と合理主義的な発想は、ヨーロッパ的な自然が生み出したというのが、和辻の一つの結論でした。

 それに対して、日本のような東アジアモンスーン地帯に暮らしていると、自然のほうが人間よりも力があって、しかもつかめない。

 そういう強大な自然のもとで生きてきた人間たちは、自然の本質が何であるかと問われても、それに答える合理的な答えを持ち得ない、ということなんです。

 例えば、自然があるからこそ人間も生きていける。これも真理なわけですけれども、東アジアの自然というのは、人間に都合の良いことだけをしてくれるわけではなくて、台風が来て、人間の文明が根こそぎ破壊される。

 自然というものは非常にありがたいもの、これも本質なんだけれど、しかし自然というものは非常に恐ろしいもので、人間を破壊してしまう。そういう一面を持っている。これも真理なわけです。

 だから、ありがたい自然と恐ろしい自然、この二つの自然の、どちらに真理があるのかと言われても困ってしまうわけです。

 自然の本質とは何かと言われても、そのこと自体がつかめない。そのこと自体はつかめないけれども、つかめないから生きていけないかというと、そんなことはないわけで、つかめない世界と共存しながら生きていく。そういう知恵を、この地域の人々は深めていく。

 それは結局、合理的に物事の本質を突き詰めていくという発想ではなくて、本質は分からないままに、それとうまく折り合いをつけるという、折り合いのつけ方がうまくなってくる。

 だから、自然とは何かと聞かれても、よく分かりませんけれど、自然との折り合いのつけ方は知っている、という発想です。

 だから、東アジアの地域においては、合理的に物事をつかむという精神が発展せず、その代わりに、折り合いをつけていくという発想は、はるかに深まっていく。そういう性格を持ってきたということです。

 明治以降の知識人たちは、西洋の社会は合理的な精神を持っていて、素晴らしいものだと言ってきた。それに対して、日本は何でも非合理で、いかがわしくて、早くヨーロッパ的な、あるいは欧米的な合理主義を、日本人も身に着けなくてはいけないと、一つの約束事のようにしばしば言ってきたことに、いや、それは自然の違いから来た、基層的な精神の違いなんだという形で説明をしたということなんです。その点において、和辻の『風土』というのは非常に面白い着眼を持っていたわけです。

共同的世界は大事な世界ではあるけれど、うっとうしい世界でもある

 だから、東アジアの地域に暮らしている人間は、この季節になると、僕なんか群馬県の上野村の人間だから全くそうですけれど、自然の中に行けば、今ごろだったら1週間や10日はいくらでも暮らせるという気分を持っているわけです。

 川に行けば、少なくなったとはいえ魚もいるし、山菜はいくらでもあるしと、そういう気分でいるわけです。

 本日のテーマから外れますので、二番目の類型である砂漠的世界については触れませんけれど、砂漠には、そんな悠長な自然は存在しないわけですから、ともかく人間がしっかりしなくてはいけない。その力しか生きるすべがない、という世界を形成していた。これはヨーロッパ以上にそうなっていたということです。

 ですから、少々、この和辻の世界の見方は乱暴な分析ではあったわけですけれど、自然のあり方が自然と人間の関係のあり方を変え、その自然と人間の関係のあり方の違いが、結局、人間たちの基層的な精神構造を変えていくということを見ていくという点においては、非常に面白い問題提起をしたわけです。

 後に、20世紀の後半に入ってくると、ヨーロッパ的世界でも、人類学とか、文化人類学とか、そういった分野がかなり盛んになってきた。世界の文化、一種の文化相対主義みたいなものが強くなってきて、つまり、かつてのヨーロッパ人たちの文明観というのは、文化・文明というのは歴史的な発展段階を持っていると考えていました。

 ヨーロッパ的世界が、例えばA地点まで来ているとするならば、日本はB地点にいて、アフリカはD地点ぐらいに止まっていると考えていた。だけど、それぞれ発展していけば、日本もいずれB地点からA地点に行くし、アフリカはちょっと時間がかかるかもしれないけど、いつかはA地点にまで行く。

 だから、自分たちの文化・文明が先頭に立っており、それ以外の文明というのは遅れた文明。遅れた文明というのは、いずれ追い付いて来る文明という言い方もできるけれど、恐らくヨーロッパ人たちは、その時には、自分たちはS地点ぐらいに行っているつもりだったでしょうから、永久に追い付かないけれども、ともかく文明というものは、ある発展史みたいなものがあって、未開な世界から野蛮の世界へ、それから文明の世界へと発展をしていく、という見方で見ていたわけです。しかし、人類学とか、文化人類学などが盛んになると、いや、文明というものはそういう優劣はないんだと。ヨーロッパ人の目から見ると、野蛮のように見える文明であったとしても、そこには素晴らしい文明があって、どんな文明だって平等なんだと。当たり前といえば当たり前なんですけど、そのことを、ヨーロッパの学問は20世紀後半になって初めて認めるようになった、というぐらいに思っておけばいいと思います。

 和辻の『風土』というのは、すべての文明は平等なんであって、自然の違い、自然と人間関係の違いから、いろいろな基層的な精神がつくられていて、それを見ていくなら、どっちが進んでいるとか、どっちが遅れているとか、そういうような切り口で物事を考えるべきではないんだということですから、少々、乱暴ではあったけれど、なかなかいい見方をしていたなという気がします。

 こういうふうに見ていくと、日本的精神は、日本的自然、つかみどころがなくて、力があって、人々はその自然と折り合いをつけながら生きていくという発想を身に着けていたということです。

 もう一つ、参考的に言いますと、そういう自然と折り合いをつけながら、もう一方において、かつて多くの人々は、自分の暮らす共同体的世界においても、折り合いをつけながら生きていたわけですけれども、その共同体的世界というのは、かつての人々にとってみると、やはり必要な世界なわけです。

 というのは、共同して自然との間の折り合いをつけていかないといけませんし、また稲作を持っていれば、共同的な水管理は絶対に必要になる。自然はともかく猛威を振るっていますから、僕の村では今でもそうですけれど、台風なんかの後に山道なんかを直すとき、共同できちっとやっていかないと、自然と人間の関係もうまくいかなくなってしまうわけです。

 ですので、共同体というものを持つからこそ、個々人もまた生きていけるという、そういう世界の中で、かつての人々は生きてきた。

 だけれども、共同体というものは、大事な世界なんだけれども、一面においてはうっとうしい世界でもあるわけです。

 ここらへんは個々人の体質の問題もあるので、何ともいえませんけど、例えば、僕は上野村で須郷という小さい集落に暮らしています。ここは家がぎゅぎゅと集まっていて、8軒ぐらいあるんですけど、その8軒の場所だけは、東京の住宅地みたいに、凝縮されているわけです。

 そうすると、この8軒はもう大きい家族みたいなもので、あまりにも接近し過ぎているから、みんな、それぞれのプライバシーには深入りしないように、けっこう気を使っていて、知らないふりをしているんですけれど、実は、みんな何でも知っている。それはもう、しようがないんです。全部、見える。窓に鍵をかけたりして暮らしてないですから、いや応なく全部分かる。お互いに分かってしまう世界というのがあって、僕は個人的には、そういう世界は好きです。みんなが知っていてくれるから、安心でいいぐらいに思っているんですけれど、しかし見方によれば、ちょっとうっとうしい世界という言い方もできるわけです。

共同体の中にありながら、自由な立場を持つためには、一流の技が要る

 かつて、日本の共同体に暮らした人たちというのは、共同体は大事であるという気持ちを片方で持ちながらも、自分個人としては、共同体からちょっと自由でいたい。共同体から完全に離れてしまうのではなくて、共同体の中に身を置いているのに、共同体からちょっと自由だという自分をつくりたいと、そういうずうずうしい欲望を持っている人が、非常に多かった。その気持ちは分からないでもないです。

 今、百姓といえば農民ですが、かつては一般民衆といいますか、その人たちというのは農業だけやっているわけではないですから、山仕事のわざ師でもあるし、人によっては野鍛冶のような形で、自分の家で刃物をつくっていることもあるというふうに、いろいろな技を持っていて、しかもその技を深めていく。生涯かけて技を極めようとする。そういう性格を持っている。なぜ日本人は、そこまで技にこだわったのか。

 それは共同体の一員でいながら、個人の自由を確立していこうとするために必要なものだったからだと、これは文学者の伊藤整も書いていて、なかなか鋭い分析をしています。

 つまり、共同体の一員でいるのに、自由な立場を確立しようとすると、人々から一目置かれる技を持つということは、とても大事だったということです。

 口だけで自由になろうとすれば、当然ながら、立場は悪くなるばかりであって、ところがあの人の技は大事だということになってくると、ある程度、その人の自由度を認めることになるわけです。

 例えば、あの人は変わり者で、少し付き合いにくいところがあるけれども、でも、あの人の技は一流だという評価を共同体社会がする。その一流の技というのは、共同体の生活にとっても必要なわけです。

 それは、村にいるとよく分かる。例えば、この数年、毎年のように天気がおかしい。夏が寒いとき、こういうときに、農作業はどうしたらいいのかというのは、やはり村のベテランに教えてもらうのがいちばんです。自分で判断するよりも、聞きに行ったほうがいい。

 こういう問題になってくると、天気がいいときには、誰がやっても作物ができるんですけれども、例えば、30年に一遍ぐらい来る、天気の悪い年が来た場合、やはり若い人の経験では無理なんです。かつてそういう経験を持っている人が、そういうときは、どういうことをしたらいいかを知っているし、もっと言えば、30年に一遍の天候の悪い年を、2〜3回経験した人がもしいれば、その人たちは大変に重要な人たちで、こういう技を持っていることが、とても重要になってくるわけです。

 うちの村では、石を組んで家を造る。石組みして平地をつくる。石組みをして畑をつくる。だから、石組みの技術はたいへん重要です。

 村の人たちは簡単な石組みはできるんですが、要かなめの石ができない。簡単な畑の脇に積むぐらいの石だったら、崩れたら、また積めばいいということで済むんですけれども、家なんかを造っている場合の角なんかは、要のところをしっかりしないと、あれが崩れてしまうと、とても困ったことになる。

 この石組みは普通の村の人ではできない。なぜ、できないかというと、石の目を見ることができない。つまり、石というのは、石の目が見える人によると、木目みたいな目があるそうです。

 その目の部分を見て、石を割るわけです。そうやって作った石で組んでいくわけですけれど、石の目なんて言われても、僕には何が何だか、意味も分からない。見えないですから。その石の目を見て割りながら、そこに適した組み方のできる人、そういう人たちが要石を組んでいくわけです。

 うちの村でいえば、石組みというのは、村の人たちが自分たちで大半の石は組める。だけど、いちばん重要なポイントの部分は、そっちのほうのベテランが来てやるわけです。そうすると、その人たちというのは重要になってくるわけです。

 そういうふうに、あの人の技は一流だよと、そういう評価を得たときには、共同体の一員でいながら、少し個人的には自由な共同体の一員として生きることができる。そのことで、共同体の持っている一面のうっとうしさ、それを突破しようとしたというのが伊藤整の言い分です。これは、かなり的を射ているのではないかなと思っています。

 一流の技を持っているということは、人々から一目置かれるということですから、そうなってくると、村の社会はたいへん有利です。なぜかというと、抜きん出た技の種類がたくさんあるわけです。

 つまり、農業だけでも、作物ごとにいろいろなものがありますし、例えは土づくりといっても、同じ村の中でも、山のこちら側の斜面と、向こう側の斜面では土質が違うなんていうことは、よくあります。日の当たり方が違うと、土の性格が変わってきたりするから、突き詰めた土づくりの技なんてことになってくると、これもまたけっこう多様です。

 それ以外に、さっき言った石組みもあれば、それから村の農具でも、村の鍛冶屋がつくっている場合もあって、特に昔の農機具はものすごく種類が多いですから、鎌だけでも、ものすごい数がある。畑の形状などによって変わっていくということです。

 そういうものを作っていける、わざ師。うちの村だと桶屋とか、さらに養蚕とか、和紙もやっていましたから、こっちのほうのわざ師も出るわけで、実に多種多様です。

 日常生活になってくると、漢方薬の知識を持っているわざ師というので、自分で山に行って薬草を採ってきたりするわけですけれど、簡単な薬草は村の人たちは分かるけれど、ちょっと重い病、慢性的な病、そういうのになってくると、抜きん出た技を持っている人たちに聞きに行くわけです。それで教えてもらったり、薬草を分けてもらったりしながら、かつては、やっていた。

 そういう日常生活の中の、わざ師。実にいろいろな人たちが展開をして、うまくいけば誰もが一芸に秀でるという世界を形成することも可能という、ここらへんも村の社会が持っている、ある有利さになるわけです。

 こういうところに見えてくるものは何かというと、一つの社会というものは、理想的な矛盾のない社会が形成されるわけではない、ということなんです。

 例えば、自然と人間の関係においても、さっき言ったように、自然があるからこそ人間は生きていける。

 だけども、日本に暮らしていると、とんでもないことをしでかしてくれるような自然。それこそ台風だけでなくて、噴火もあれば、地震もあるという自然ですから、頭を抱えてしまうようなことをしてくれる自然でもあるわけです。

 だから、自然と人間の関係というのは、美しいばっかりではなくて、矛盾に満ちた自然と人間の関係というのも、当然ながらあるわけです。

 それから、共同体というものも、美しい共同体だけがあるわけではなくて、大事なんだけれど、「ちょっとねえ」というような一面も、当然ながらある。

 そういうふうに、すべてのものには矛盾がありながら、だけど大事でもある。だからこそそこで必要になってくるのは、それと、どう折り合いをつけていくかという発想になるわけです。

 その折り合いのつけ方が、共同体と個人というところでは、技を身に着けるというところで折り合いをつけていく。

 だから、そこでもまた日本的なんですけれども、その課題に対して、主張することではないんです。その課題に答えを出せる自分を形成するということになる。これが、この場合には技を身に着けるということになるわけです。

 共同体の中で、もうちょっと自由でいたいなと考えたとき、今の日本人だったら、「共同体のあり方再検討委員会」みたいなものをつくって、「そもそも個人と共同体とは、どういう関係にあるべきか」について議論をしよういうことになるわけですけれど、昔の人は、自分が技を身に着けることによって、解決してきた。

 逆にいえば、自分に技が身に着かないならば、解決はつかない。こういうあり方です。

 だから、日本的な精神というのは、物事の中には常に矛盾がはらまれているということを前提にした発想です。このへんも、やはりヨーロッパ近代の思想とは違う。

 ヨーロッパ近代の思想というのは、矛盾はあるとしても、その矛盾は、いつか人間が解決のつくものと設定されている。

 だから、解決がついていないというのは、まだ人間がそこまで発展していないか、社会が発展していないか、そういうことによって矛盾が起きているわけであって、本当は解決がつくはずだという発想です。今のヨーロッパの思想は、そうではなくなってきましたけれども、もともと近代思想というのはそうであった。

 ところが日本の思想というのは、そうではなくて、いつまでたっても矛盾はあるよという、そういう形できたということです。(以下、次号)

かがり火No101 p32掲載記事

内山節氏の哲学塾(上)日本的精神について

 本誌は直接的には、いかにしたら地方が元気になるかをテーマにしている地域づくり雑誌である。地域づくりとは何かを追究していけば、必然的に地方、地域、集落、地域共同体、ローカルな世界の持つ意味や可能性について考えざるを得ない。なぜ、かくまで地域にこだわるのかといえば、現代の閉塞感を克服するには、都市ではなく、ローカルな世界から生まれてくる思想に頼らなければならないのではないかと、漠然と想像しているからだ。

 この漠然としたものに、いつもくっきりと輪郭を与えてくれるのは内山哲学である。そして、本誌のやっている仕事もあながち無駄ではないんだなと元気づけてくれるのも内山哲学である。

 5月のある日、東京・四谷の居酒屋に内山節氏を迎えて開催された哲学塾のテーマは、「日本的精神について」だった。都会の漂流者にとって、大変示唆に富んだ講義であった。参加した人々だけではもったいないので、今号と次号の2回に分けて再録させていただく。

「自然」は、もともと「じねん」と読んでいた

 日本の民衆思想における日本的な精神というものを考えていこうとすると、自然と人間の関係という問題と、それから共同体と人間の関係という、この二つのものが、どういう精神をつくっていったのかということを、まず検討しなければいけないという気がします。

 これも、もう広く知られていることですけれども、今、私たちは“自然”という漢字を書いて“しぜん”と読むわけですけれど、もともとこの字は“じねん”と発音をしていて、訓読みをしていきますと、「自おのずから然しかりなり」という意味合いを指しています。

 ですから、自然と人間というふうな対立する概念でとらえていたわけではなくて、自然も人間も含めて展開していく“自ずから”の世界、それをもともと日本では“じねん”という表現で使ってきた。

 それで明治の30年ごろに、外来語を翻訳する過程で、外来語の自然、それをうまく翻訳する言葉がなかった。

 というのは、欧米語の自然というのは、自然と人間を峻別して、人間の外にある一つの客観的な体系として自然を見ていたわけですけれども、日本の場合は自然と人間を、そういう形で分離するという発想がもともとなかった。だから、自然という言葉がない。

 ということで、どういう言葉を当てるかというときに“じねん”という言葉を当てはめて、読み方を“しぜん”としたという、そんな経緯から、今、私たちは自然という言葉を使うようになったということだろうと思います。

 ですから、もともとの日本の精神の世界には、常に流れ続けていたものというのは、自然と人間が共同の時間、空間のなかで、自ずから展開していく世界、それをどうつかむかということが常に問われ続けていた。共同体に暮らす民として、ここに人々は永遠の世界を見ていた。

 だから、自分自身は寿命がくれば、この世を去るわけですけれども、わが家の永遠性、共同体の永遠性、ときには、わが家のほうは途絶えてしまう可能性がないとも言えないわけですけれども、少なくとも共同体的世界、つまり春になれば畑を耕して、秋になれば山にキノコを採りに行ったりする。そして、そこで人々が結び合って生きている。この共同体的世界というものは、永遠の世界であるという、この感覚です。

 だから、永遠に展開する自然(じねん)の世界と、永遠に展開する共同体の世界、それを見ながらどうやって生きていくのか。これが、もともと日本の民衆の精神構造をつくっていったという気がしています。

 同時に、その民衆が行っていた生業というものは非常に多様なものであって、特に、僕の場合には、自分のフィールドが群馬県の上野村という山村で、この山村は田んぼを持たない村ですから、なおのこと、そう感じるのかもしれませんけれども、人々は実にいろいろな仕事をしながら、一年の労働の体系をつくり出して生きてきた。その世界が、あたかも永遠に展開し続けるかのごとく感じながら生きてきた、という気がします。

 

家業の継承性でいちばん大事なのは信用

 このへんの問題に深入りしていくために、初めに、家業というテーマでお話をしてみます。というのは、今、家業を持っている人というのは、むしろ少数派であって、ほとんどの人間は家業を持たない暮らしというのをしているわけですけれども、もともとの日本人の大半は家業を持ちながら暮らしていた。

 家業というのは、職人とか商人だけではないわけで、農家も家業ですし、ある意味では武士も家業だったでしょうし、天皇家も家業ならば、貴族も家業というふうに、非常に多くの人たちが家業を持ちながら暮らしていた。

 家業を持たない人たちというのをヤクザな人たちと言ったわけで、その点では、今、日本人の大半はヤクザな人たちに変わってしまったわけですけれども、なぜかっていうと、家業というのは、これもまた永遠に展開する世界として設定されている。それに対して、永遠性を持たない自分一代の仕事、これがヤクザの仕事だったということです。

 だから、家業を考えていく場合に、それが農業であれ、商業であれ、何であれ、いちばん大事なことは、どうやって家業を継続させるかということだった。

 そうすると、継続させていくためには何が要るか。一つは、家業の継承者の決定というのが、かなり重要な役割を果たすわけで、つまり家業継承者が、あまりにもボンクラであると、家業をつぶしてしまうという結果を招きかねない。

 ですから、家業というものは、多くの場合は血縁者によって継承されていく。だから長男が継承するとか、そういう形で継承されていくわけですけれども、長男が絶対性を持つわけではない。

 つまり、長男が家業を継ぐにふさわしい、まあまあの人間であるということになれば、長男が優先するわけですけれども、長男が家業をつぶしかねない人間であるということになると、家業の継承権は二男にいくし、三男にいくし、男の子が都合が悪いということになると、今度は娘に婿をとって家業を継がせるという手法をとるし、息子も娘も駄目ということになると、今度は両方とも養子をとるという。

 ですから、血縁でつないでいくということよりも、家業をいかにつなぐかということのほうが、優先されるということです。

 ただし、多くの場合には、だいたい男の子に小さいころから仕込んでありますから、男子が家業を継承をしていくというケースが多かったということになる。

 この家業の世界において、いちばん重要だったのは何かというと、やはり信用だったわけです。

 というのは、目先の利益だけ追うのは、当面はいいかもしれないけれども、長期的に信用を失ってしまうと、やはり永遠の家業というわけにはいかなくなってしまいます。どこかで没落が始まる。ですので、いかにして信用を高めていくかということが、家業においてはいちばん重要だった。

 

日本の企業、家業には、倫理は存在しなかった

 東京では言葉としては消えてしまいましたけれども、京都などに行くと、今でも、なじみ客、一見の客、このへんの区別が言葉としては残っている。

 東京の人間は割に誤解しやすいんですけれども、一見の客というのは一回限りの客、なじみの客というのは常連さんというふうに、簡単に理解してしまうのですが、実は、なじみ客というのは、そういう人ではないんです。

 なじみ客というのは、もちろん、しょっちゅう来てくれる常連さんでもあるんですけれども、家業が傾いたときに支援してくれる人でもあるわけです。

 だから、例えば、僕が家業をやっていて、頑張っているんだけれど、実は、もう、火の車になっている。そのことを聞きつけたなじみ客が来て、「早く言ってくれれば、応援したのに」とか言って、場合によっては、1千万ぐらい置いていってくれるとかですね。そういう人たちが、なじみ客。

 もちろん、お金だけではないわけで、それならば一肌脱いで、売り先を紹介しましょうとか、仕入れ先を私が保証する形で、今までどおり仕入れできるようにしましょうとか、ともかく苦しいときに応援してくれる。

 それで、もちろん家業が立ち直れば、借りたお金は返していくわけですけれど、支援者だって、そんなに楽な人ばっかりではないわけです。けっこう無理をしながら、顔では、「早く言ってくれれば、何とかしましたのに」とか言いながらも、実はその人も借金したりするわけだけれども、そうやって応援してくれる。だから、家業を支え合う共同体です。

 そういう人たちがなじみ客なのであって、一見の客というのは、いくら常連になってもそういうことをしてくれない人。だから、店がつぶれれば、ほかの店で買う人たち。

 そういう人たちが一見の客ですので、お店としてはどっちを大事にするかというのは、これは分かりきっているわけです。当然ながら、なじみ客を大事にする。

 だから、なじみ客と一見の客には、ある種の差別があるということになるわけですけれども、これも家業の永遠性を保証するための仕組みとしてつくられた。

 そういうふうになじみ客が、困ったときには応援もしてくれる。なぜかということになると、そこの家が持っている信用度に最後は尽きるということなんです。

 だから、どうやって信用を高めていくか。逆にいえば、信用を損なうようなことは、してはいけないということでもあるわけです。

 例えば、最近の経済情勢のなかで、企業のモラルハザードとか、企業倫理がどうのこうのとか、そんなことが議論されることがありますけれど、もともと日本の企業には、家業の世界においても、企業倫理なんか存在しないのです。

 つまり、倫理というのは、もともとヨーロッパ社会が、キリスト教社会の中で形成してきた倫理観であって、日本のものには、そのようなものは存在しないわけです。

 で、何があったかというと、日本の場合には、あくまで信用の維持、それだけがあったわけです。だから、もちろん、それはいま広く言っている倫理というものと近いものがあることは確かなんですけれども、倫理観ではないんです。

 つまり、家業を継続していくために、どうやって信用を維持するか。だから家業のなかには家訓を残すというのがあって、子孫のためには、こういうことをしてはいけないとか、あるいは、こういうふうにしなければいけないとか、そういう家訓があって、その家訓は、ある意味では、倫理が並んでいるような感じになるわけですけれども、実は倫理という感覚ではなくて、家業の継続性を保証していくための信用の確立という、そのことに尽きるのです。

3839親鸞の晩年の発想、「自然法爾」(じねんほうに)

 では、信用とは何かを、大多数の人が生きていた農村共同体の社会に見ていこうとすると、その信用というのは、言葉で言ってしまいますと、自ずからの世界、つまり自然(じねん)の世界、自然(じねん)の世界と矛盾したことをしないということに尽きていくことになる。つまり、自ずからの世界に逆らった生き方をしない、というふうに言ってもいいということです。では、自ずからの世界はいったい何なのかというと、非常に分かりにくいものですが、しかし人々が結構つかんでいたものなのです。

 いま私たちが、民衆の日本的精神というものを議論しようとするときに、議論しにくいのは、かつての人々の、この自ずからの世界です。つまり、それは自然(じねん)の世界でもあり、共同体の世界でもあったわけですけれども、それをつかみながら生きていた。

 ところが今、市民化してきた、あるいは近代人化してきたと言ってもいいですけど、われわれは、自ずからという世界がつかめない生き方をしているわけです。ですから、ここのところが、最初に説明しにくい壁として出てまいります。

 このことを説明するために、平安の末期と言ってもいいし、鎌倉の初期と言ってもいいですけれども、親鸞の思想をちょっと参考にしてみようかなと思います。

 親鸞の晩年の発想に、「自然法爾」(じねんほうに)というのがあります。親鸞教学というのは、法然から受け継いだものですけれども、阿弥陀さまが人々を救おうとして、光のように空から差している。阿弥陀さまは人間たちを救おう、救おうと思って空から差しているんです。ところが、人間のほうがそれに気が付かないで、勝手なことをやっている。だから早く、そのことに気が付いて、阿弥陀さまに助けを求めなさい。そうすれば、極楽往生まちがいなしという、簡単に言ってしまうと、そういう思想です。ですから、南無阿弥陀仏という念仏を唱えなさいと。

“南無”というのは“帰依する”とか“従う”とか“救いを求める”と言ってもいいですけれど、そういうような意味合いの言葉ですから、「阿弥陀さま、お願いします」という言葉でもあるし、「阿弥陀さま、助けてください」という意味合いでもあるし、とにかく阿弥陀さまに救いを求めれば、極楽往生まちがいなしと。これが単純に言ってしまった場合の、法然、親鸞の念仏思想です。

 去年の秋に、群馬県の片品村へ出掛けたのですが、そこで念仏講を見せてもらう機会がありました。念仏講というのは念仏系の思想、つまり法然とか親鸞の流れです。それを受け継いでいるとも言えるんですけれども、各地域に土着している念仏講というのは、勝手に各地域に土着してしまったというような性格もあって、必ずしも浄土宗とか、浄土真宗と結び付いているわけでもない。

 片品村の場合には、念仏講の人たちが黒いおそろいの衣装を持っていて、人が亡くなるときに呼ばれて、その枕元に行って、念仏講の人たちが念仏を唱えながら、その人を見送る。それをしないと往生できないという感覚で、それが今でも生きている。片品村では今でも人が亡くなると呼ばれて、青息吐息のときにそれをやるのですが、私が行ったときには、お葬式ではなかったのですが、やってくれるというので、見せてもらった。で、見ておりましたらば、みんなで唱える言葉は、そもそもこの念仏は、遠く天竺から伝わったものだという話から始まって、日本に源信上人が現れて、広めたというあたりから始まって、法然上人が現れて、ますます栄えて、親鸞上人が現れてわれわれのものに、ますますなったというような経緯が、最初のほうで語られていくわけです。

 その後で、亡くなりそうな人に伝える言葉として、その近くに何とか山があるんですけれど、その山の頂にいま阿弥陀さまが現れて、あなたを迎えに来ているという文章に変わっていくわけです。

 その阿弥陀さまが迎えに来ているから、もう大丈夫だから、極楽往生まちがいなしというのだったら筋が通っているんですけれども、その後、どういうふうに展開するかというと、阿弥陀さまが何とか山に出て来て、頂からあなたを迎えに来ていますよ。だけども、その阿弥陀さまを、あなたは見ることができない。その山に雲がかかっていて、阿弥陀さまが見えない。なぜ雲がかかっているのかは、雲が邪険だからではない。あなたの心が邪険だから見えないのだという、それで終わりなんですね。

 これで極楽往生できるんだろうかと心配になってしまうんですけれども、つまり、せっかく阿弥陀さまが迎えに来ているのに、あなたの心の中にある邪険な部分、それが雲をかけてしまっていて、阿弥陀さまを見ることができなくしている。

 それで、続きがあるかと思ったら、続きがない。

 これは、見事に浄土真宗の教えを伝えているということなんですけれど、その救いというのは、阿弥陀さまが出て来ているから、もう安心ですよという、あるいは阿弥陀さまに頼めば安心ですよと言っているわけではなくて、あなたの心の中にある邪険に早く気が付きなさい。それに気が付けば雲は晴れて、阿弥陀さまが救ってくれると言っている。

 昔、片品村に来た人たちは、そんな邪険な人はいなかったわけですね。恐らく、まじめに農業をやり、あるいは山の仕事をしたかもしれないけれども、今のわれわれよりは、はるかに清く正しい生き方をしていた人たちであったろうと思うわけです。

 だけれども、人間として生きた。人間として生きたということが、必ず、その人の精神の中に、ある種の邪険なものを発生させる。

 つまり、人間として生きるということは、欲望を持つということでもあるし、それから自意識を持つということでもあるわけです。この自意識を持っていること自体が一つの邪険である。だから、人間として生きた以上は、邪険という意識を全く持たない、清く、正しい精神の持ち主というのは存在しないわけです。

 大なり、小なり、ゆがんだもの、あるいは、けがれたものといっていいかもしれませんけれども、そういうものを精神の中に持ちながら生きてきた。そのことに気が付かない限り、阿弥陀さまは見ることができない、ということです。

 だから、今まさに死なんとする人に対して言う言葉が、阿弥陀さまが出てきたから、もう大丈夫ですよではなくて、あなたの持っている邪険なものに早く気が付きなさいということを、みんなで言ってあげる。それが死に水のときの言葉で、なかなか見事なものだということですね。

 驚いてしまうのは、こういうことを、かつての人々は当たり前のように耐えてきたというか、受け入れてきたということです。

 もし今、病院で亡くなろうとする人たちに、あなたは邪険な精神を持っているから、もう駄目ですよなんて言ったら、その人はもう耐えることはできない。ますます不安になってしまう。

 だけど、そのことに気が付いて、今、清らかに死ぬんだという、そういうことが誰にも分かったということですね。このへんは日本の民衆精神の持っていた、すごさを表しているわけでして、こういうものが教団としての浄土宗とか、浄土真宗とは無関係に、各地に定着していたということは、僕は大したもんだと思います。

 もう一度、親鸞の自然法爾に戻りますと、さっき簡単に言ってしまったように、阿弥陀さまは人々を救おうと思って光のように差している。だから、それに気が付いて、助けてちょうだいと。それが南無阿弥陀仏ですけれど、それを言えば、間違いなく救われると教えるわけですね。

 ところが、そのことを知った人、つまり、阿弥陀さまが救おうとしていることも知ったし、南無阿弥陀仏も唱えた。そういう人間が、おれはもう極楽往生まちがいなしだと思ったとすると、それは間違いなわけです。

 つまり、この阿弥陀さまの真理を知った以上、自分は極楽往生まちがいなしと考えているのも、自分自身の自意識ですから、まさに人間的な心でそう思っているわけです。

 だから、結局、それにとらわれている限り、もはや自然法爾の考え方から逸脱していると言ってしまってもいいわけです。そのことに気が付いた人たちは、次のステップへ向かわざるを得ない。結局、人間自身が持っている、さっきの片品村の言葉でいえば、邪険なるものとの戦いがここから始まるわけです。

 

人間を救おうとしたものは、自然(じねん)の世界

 で、その結果として、晩年の親鸞がどういうふうに言ってきたかというと、自分自身は阿弥陀さまが存在するかどうかも知らない。極楽というものがあるかないかも知らない。そんなことはどうでもよい、ということになったわけです。そんなことにとらわれている限り、違うんだと。

 確かに、阿弥陀さまは救おうとしているんだから、手のひらを合わせなさいねと言っていながら、親鸞のような行程を踏んで来た人間にとってみれば、もはや阿弥陀さまが救おうとしているかどうかとか、極楽があるかないかということさえ、もはや、どうでもよいこと、そんなことに、とらわれる必要もないこと。

 その結果、彼が言ったのは、自分が阿弥陀さまという言葉で表現しようとしたものは、自然(じねん)であるという。つまり、自然(じねん)とは何かということを、自分は、阿弥陀さまという言葉で表現しようとしたんだと。

 だから、まさに天から光のように差して、人間を救おうとしていたものは、実は自然(じねん)の世界であるということです。これが晩年の自然法爾の発想になっていく。

 ですから、今の言葉を使って言ってしまうと、結局、阿弥陀さまに救いを求めるというのは、人間に対して、自然(じねん)の世界に戻れと言っていることになるわけです。

 で、自然(じねん)の世界に戻るというのは、自ずからの世界の中で生きなさいということです。

 つまり、決して西洋的な意味において、自然ではないですから、すべてが自ずから然りなりで展開していく世界。その世界の中で生きなさいということになっていく。

 ところが、そのときに、人間は自然(じねん)の世界に本当に戻れるのか、という問いが、どうしても出てくるわけです。

 で、自ずからの世界を感じ取りながら、そこに従おうとするとき、人間は、かなり自然(じねん)の世界に戻ることができる。

 だけれども結局、人間が人間である以上、突き詰めていくと、最後には、戻れない世界、やはり人間として、一線を画してしまうものが残ってしまうということです。だから、完全に戻れない人間が見えてくる。

 その完全に戻れない人間の有り様といいますか、それを悲しみとして、人間が根源的に持っている悲しさとして見るという、ここらへんが親鸞教学の最終局面になっていくということです。

 だから人間が、人間であることを喜びとして見るという西洋的な人間主義とは、ここらへんでも根本的に違うんです。

 だから、自然(じねん)の世界に戻ることができない人間らしさ、と言ってもいいんですけど、それを人間の持っている根源的悲しさと見る。

 その悲しさを見ている人間たちを、結局、自然(じねん)の世界は、最後は救ってくれるだろうということです。それが阿弥陀さまの大悲、慈悲と言ってもいいです。

 結局、戻れない自分に、人間の悲しい姿を見ている。その人間を、最後は阿弥陀さまが救ってくれる。そんなふうに言ってもいいということですけれども、その阿弥陀さまというものは、まさに自ずからの世界が救い出してくれるというふうに言ってもいいということです。

 こういう平安末期と言ってもいいし、鎌倉初期と言ってもいいんですけれど、その時期に成立してくる一つの思想ですけれど、これが親鸞だけが特殊な性格を持つわけではなくて、言い方はさまざま、いろいろなものがあるとしても、このくらいのややこしさというんですか、そういうものを一般民衆がつかんでいるということのすごさなわけです。

(以下、次号)

かがり火No100 p36掲載記事

ゆずの森”構想で、

新たな挑戦 大げさではない。本誌は、本当にそう思っている。

 今でこそ、地域づくりの優等生と言われるようになった馬路村だが、二十数年前までは、高知県の山奥の無名の村だった。いわゆる観光資源と言うべき名所旧跡も神社仏閣もなく、国立公園でもなく景勝の地でもなかった。目ぼしい産業もなく財政も厳しい、そのうえ交通が不便な、ないない尽くしの典型的な過疎の村だった。その馬路村の農協が開発した「ぽん酢しょうゆ」「ごっくん馬路村」をはじめ、柚子商品は今や年商29億円となり、全国に35万の顧客を抱え、年間5万人のお客さんがわざわざ現地まで足を運ぶ、人気の村となった。

 つまり、馬路村は「無から有を生み出した」のである。高齢化、少子

化で悩む全国の過疎の村に、これほど勇気を与えてくれる存在はない。
その馬路村が、また新たな挑戦を始めた。

簡単におさらい

 本誌の読者にいまさら馬路村の成功物語を紹介しても、煩わしいだけに違いない。しかし地域づくりに目覚めて、最近、『かがり火』の読者になった方もおられるので、簡単に復習しておきたい。

 馬路村は高知県の北東部、安芸郡にある小さな村で、高知市内から車でたっぷり2時間かかる。昔は林業の町として栄え、一時は3500人いた人口も、ご多分に漏れず林業の衰退とともに年々減り、平成16年2月の時点で1227人となった。

 馬路村が、果樹による村おこしを計画し、柚子を植え始めたのは昭和38年ごろからだった。ところが、柚子はほぼ4年おきに大豊作となり、そのたびに相場が暴落する。そのうえ、青果として出荷するにはハンディがあった。見た目もつやつやとして、大きさもそろった上等の柚子を作るには、年間7回も8回も病害虫の防除作業をして、黒点病を防ぐ必要があった。枝に生えている3センチほどのトゲを避けながらの作業は、お年寄りの多い馬路村の農家には、厳しい仕事だった。見栄えを気にしなくてもいい加工品への転換を図ったのは、苦肉の策でもあったのである。

 しかし、商品はできたものの、販売がままならない。搾汁を大手醸造会社に納入したり、県経済連に委託販売していたが、売上はさっぱり伸びず、昭和55年当時は2千万円とか3千万円で、農家からの信頼も失いかけていた。

 当時、馬路村農協の営農販売課の一職員だった東谷望史さん(52歳、現在は専務理事)の苦闘のドラマが始まった。

 東谷さんは加工所で新商品の開発に取り組む一方で、高知市や大阪、東京の百貨店の催事に積極的に参加した。しかし、知名度は低く、四国の山村の地場産品に関心を持ってくれる客は少なく、馬路村(うまじむら)を“バロムラ”と読む人もいたほどである。年々赤字が膨れるばかりだった。

 ところが、昭和63年に池袋の西武百貨店で開催された“日本の百一村展”で金賞を受賞して火が付いた。それを契機に毎年、倍々ゲームで売上が伸びていった。

 平成2年、東谷さんが自分の子どもに毎日のように試飲させて開発した柚子ドリンク“ごっくん馬路村”は爆発的なヒットとなって、一躍、馬路村の名前は全国に広がった。

 この経緯を詳しく知りたい方は、『「ごっくん馬路村」の村おこし』(大歳昌彦著/日本経済新聞社刊)がお薦めだ。地域づくりをテーマにした本は教科書的、画一的で面白くないものが多いが、この本は、村おこしのノウハウだけではなく、東谷さんや村の住民との人間ドラマが余すところなく描かれていて、退屈することがない。まるで寅さんの映画を見ているようだ。

馬路村の“黄金のトライアングル”

 馬路村農業協同組合の柚子商品が、かくまでヒットした背景には、さまざまな要因があるが、その一つは、巧みな宣伝戦略にあったというのは大方の見方である。ほのぼのとした山村のイメージと柚子商品を巧みにマッチさせた、パンフ、ポスター、小冊子、チラシ、瓶のラベルなどの宣伝媒体は、どれもユニークで力強く、懐かしい郷愁にあふれていて、訴求力は抜群だった。

“商品を売る前に、村を丸ごと売り出す”という戦略を立案したのは、東谷望史さんだが、彼には心強い味方がいた。優れたプランナーであり、コピーライターでもある松崎了三さんと、商品のすべての販促媒体に絵を描いている田上泰昭さんというデザイナーである。東谷、松崎、田上の“黄金のトライアングル”が、柚子商品の爆発的ヒットを生み出したといっても過言ではない。

 例えば、高知空港には「お父ちゃん、ぼくらあも いっぺん ひこうき のりたいなあ」という墨筆で書かれたコピーと共に、田上さんの例の版画タッチの電飾看板が掛かっている。柚子畑から飛行機を見上げている父と息子の絵に、懐かしい気持ちになる。羽田空港のモノレールに張り出したポスターも反響が大きかった。頭に水中メガネ、手に虫取り網を持った少年が、“お兄ちゃん、帰ってくる言うたやいか”と言っている。田舎にふるさとを持つ人ならば、きっと心を震わせたに違いない。数々の名コピーと共に、ほのぼのとした版画タッチの絵は、日本にもまだこんな素朴な村があるのだということを訴えるのに十分だった。

 馬路村からのメッセージは、難しい言葉はまったく使っていないのに、ぐっと引き付けられるものばかりだ。

 馬路村役場が出している『ふんわ〜りふわふわ馬路村 馬路村勢要覧』には、次のような一文が載っていた。

「りっぱな施設や遊び場がないき、そりゃあ街の人から見たら馬路村は不便かもしれん。けんど、ここにゃあアユやアメゴが泳ぎゆうきれいな川があるし、カモシカの居る山もある。空は晴れたときにゃあいっつもキレイなもんよ。こんな自然は街には無いろうがえ。僕らぁは、小さい時からこの自然の中で暮らしてきたがよ。子どものころは、川で魚を追わえたり、山へ入って山菜を採ったりして遊びよった。けんど、よう考えたら今でも、釣りに行きゆうし、そろそろやなと思うたら山菜やキノコを探しに山へ入りゆうよ。大人になっても何ちゃあ変わってないがやね。

 そらぁ、時には不便も感じるし、自然もいっつも優しい顔をしてくれるわけやない。この辺は雨の降り方もハンパやないきねえ。そうなったら川はゴンゴンと水が流れるし、ひどい時には山が崩れることもある。そんな時は、みんなぁが団結して村を守るがよ。僕らぁ子どもの頃から幼なじみやし、自然が怒っちゅうかどうかもすぐ分かるきねや。

 さあ、今日も一仕事終わったき、今から川へ釣りにいってみようかねえ。何というたち、自分くの畑で採った野菜と、この前の川で釣ったアユが最高の晩酌の肴よ。よかったらあんたらぁも馬路へ来てみんかよ。長いこと住んじゅう僕が、今でも飽きんとこの村が好きながやき、あんたらぁもいっぺんで好きになるがと違うろうか」

 この文章を読んで、馬路村に行きたいと思わない人はあるまい。心がじーんとして、そして浮き浮きしてくる。馬路村を抱き締めたくなる。

 こういう文章は、頭で考えても出てくるものではない。心の底から、自分の村が好きでなければ書けないものだ。すでに、文学と言ってもいいものである。

大きくなって、足元が緩んでいないか

 松崎了三さんが東谷さんと出会ったころの馬路村は、まだ無名で、年商が7千万円か8千万円ぐらいの時だった。それが、いまは飛ぶ鳥を落とす勢いである。自分の手掛けたクライアントがかくも成長したとあっては、松崎さんは、さぞかし鼻高々だろうと思ったが、意外にも、現在の状況が心配なのだという。

「近ごろの馬路村は、ちっと大きゅうなり過ぎたやないかと気にしちゅうがよ。東谷さんは確かに苦労はしたとは思うけんど、運にも恵まれて、あれよあれよという間に30億近くになった。けれど、事業には“ぼっちり”ということがあるじゃないですか。土佐弁でいうたら、ちょうどいい案配という意味なんですが。戦線を拡大して、いっぱいいっぱいに伸び切って仕事をするんじゃなくて、余裕を持って続けられる状態というか……、馬路村は事業的にはその域を超えて、ちょっとしんどうなっちゃあせんかと気掛かりなんですわ。

 僕が馬路村を手伝い始めた17年、18年前は、まだのんびりしてて、仕事の合間に安田川でアユを取って食べたり、注文の電話もそうかかってこんかった。売れんかった時代を懐かしみゆうわけやないけれど、あれはあれでえい時代やったなあと思います」

 松崎さんは東谷さんに出会ったとき、天衣無縫で無邪気で、何よりも馬路村が好きで好きでたまらない東谷さんに惚れてしまったという。このおんちゃんのためには何でもしてあげようと思わせる引力があった。東谷さんが50億の売上を上げたいと言えば、50億をやってやろうじゃないかと思ったという。会えば分かるが、東谷さんは、明るくて、飾らず、人情家で、いかにも田舎のおんちゃんという風貌だが、誰にでも愛されてしまう天性の性格なのだ。同席した人の誰でもが、彼の語る夢に引きずり込まれ、その夢を一緒に実現したいと思うようになる。

 東谷さんが、行商に近いかたちで営業に回っていた苦難の時代を知っている松崎さんだからこそ、現在の繁栄の中で、誰も口にしない不安をあえて提言するのだった。

「世の中は不思議なもんですわ。年商30億の売上といえば、単純に30億の利益と思う人もおる。馬路村の柚子農家はお金が余って、蔵が立っていると錯覚する人も出てくる。とんでもない話なんですわ。

 馬路村が、合併を拒否して自立の道を選択したのでも、そそっかしい人が聞けば、馬路村は財政的に豊かやき自立できるがやろうと思う人も出てくる。これなんかも大変な誤解で、自主財源は20%を切っていて、地方交付税が減額されたらやっていけん状態なんですわ」

 松崎さんはプランナーであり、コピーライターであるが、優れたコンサルタントでもある。消費者心理というものを熟知している。

「“ぽん酢しょうゆ ゆずの村”にしても、“ごっくん馬路村”にしても、確かにおいしい。商品としても一流品やと思います。けんど、これらの商品を買うてくれるお客さまの心の中には、“頑張れ馬路村”と、村を応援している気持ちがかなり強く入っていると思うんですよ。過疎に負けないで一生懸命生きていってよ、きれいな川や山を守ってよ、日本からだんだん消えていく田舎の暮らしを守ってよという念願が込められていると思います。もし馬路村から、大きゅうなったから、もう大丈夫ですと言っているような空気を感じてしまうと、さっと引いてしまうものなんです」

 松崎さんは、心配性なわけではない。もちろん、馬路村がテングになっているわけでもない。しかし、消費者というのは嫉妬深いものであるということを、松崎さんは喝破しているようだった。

便利な都会よりも、不便な田舎がモテる時代

 さて、松崎さんの心配に対して、東谷さんの見解はどうだろうか。

「松崎君の言う“ぼっちり”ということの意味はよう分かる。何年前かは、はっきり分からんけんど、確かに“ぼっちり”という状態はあったと思う。商品も売れてきた、人も増えた、飯も食えるようになったというときはあったんだと思う。けんど、むらづくりという視点で事業を進めていこうとしたら、事業収支が前の年と同じというがは、やっぱり駄目ながよ。新しい商品も開発せんといかんとなると、投資もせないかんし、理事会の承認ももらわないかんし、常に新しい目標に向かって、こつこつと進まないかんがよ。

 どこまで行っても階段が続くというのはしんどい。けんど、事業には頂上というものはないと思う。一つの峰を越えたら、次の峰が見えてくる、それを一歩一歩上っていくもんやと思う。頂上には一気に駆け上がるがやのうて、時間をかけてゆっくり上るほうがえいと思う。それにしても、今は頂上の手前で、ちょっと息切れしちゅう」

 息切れというのは何のことを指すのかと聞いたら、現場から離れたことの寂しさを口にした。

「一職員から始まって、課長になり、参事になって、役員になったがよ。昔は現場におったき、工場の隅々まで目配りができたけんど、本所の机のほうに長うおることになって寂しいがよ」 

 その寂しさという裏には、自分は何もないときから、すべて開拓してきたという自負と共に、後に続く若手に、何事にも果敢に挑戦するエネルギーが希薄に感じられ、歯がゆい思いをしているようでもあった。

 東谷さんは、馬路村が生きていく道には三つの条件があるという。

「日本の中山間地といわれる町村が、いつまでも公共事業に頼る時代やないと思うがよ。自立していかんかったら国が成り立たんやろ。

 それには、まず経済。すべてが経済性で解決するとは思わんけんど、やっぱり収入の道は必要やき。村にある柚子や木材を加工して、それを販売して収入を得ることは第一に絶対だと思う。もし、これができんかったら、出稼ぎに行って稼いでこんといかん。けんど、今は出稼ぎに行く場所がのうなってきちゅう。

 二つ目は、加工。一次産業だけでは、素材をそのまま出荷するだけやき、雇用が増えん。働く仕事がなければ、人口も減っていく。初めて柚子商品を売り出したころは、加工所はわずか数人だった。それもパートのおばちゃん中心やった。そのおばちゃんたちにも毎日働いてもらえんで、週3日ぐらい来てもろうたらそれで十分という状態が続いて、早う、毎日働いてもらえるようにしたいと思うたもんです。“ごっくん馬路村”が売れて、全国から電話やファクスで注文が入るようになって、スタッフは40人に増えた。現在は、60人の従業員がおる。雇用が増えることを考えるのは大切だと思う。

 三つ目は、村の魅力をもっともっと高めて、お客さんに直接、馬路村に来てもらうことやと思う。つまり観光ながやけど、現在は年間5万人、これを50万人とはいわんまでも20万人は来てもらえるようにしたい。いま、有名観光地はどこも不振で苦労しゆうけんど、この馬路村のような辺鄙な田舎のほうが魅力的に受け取ってもらえる時代になってきたがやないかと思う」

地域イメージを高めてお客さんを迎えたい

 だんだん分かってきた。東谷さんが、次なる目標として掲げているのは観光だった。すでに“ゆずの森構想”として、コンセプトは固まっていた。計画書を拝見して、うなってしまった。とても、電通や博報堂では作れないような、型破りな企画書である。

 例えば、これからの馬路村は産業の複合化で活性化を目指すということを、次のように表現しているのであった。

「むつかしい事いうてもわからんけんど、農協は柚子玉集めるろう。これは一次産業やなあ。ほんで一・五次産品いうて、付加価値をつけろいうて加工するろう。けんどこれが機械化になって二次産業化しちょらあのう。これは工業的よねえ。ほれから、人にたのまんと自分で東京や大阪へ、そのまま売るろうがね。これは、もう商品よねえ。三次産業なんよ。それを売るに馬路のイメージをダイレクトメールで送るわねえ。こりゃもう情報産業の最先端よねえ。そうやって考えたら、生産、加工、販売までの農を中心とした総合的産業ながよ。最後は馬路へ柚子しぼりに来いやという観光化よねえ。こりゃ、わかりやすいろう」

 確かに分かりやすい。交流による活性化についての説明も、実に明快である。

「交流を軸にした地域イメージじゃなんじゃいうても、わかりにくいき、簡単に言うたら、まぁ、馬路がえいえい言うて人が集まって来たら、住民票はないけんど、まぁ村の人口が増えらぁのう。ほいたら温泉に入ったり、うまいもんを食うたり、泊まったりするき、収入になるろう。ほんで帰りにゃ土産(柚子製品)を買うて帰るき、温泉も農協も潤うろうがよ。ほんでもっと人が来たら、もっともっと経済活力が活発になって人も雇えるし、泊まる所も増やいたり、農産物をそのまま売ったり、木工品も売れるやいか。ますます馬路は有名になって馬路のイメージが創られるようになって、みんなぁが元気になってえいがぁよ。それにゃ、交流が必要で地域イメージがカギを握っちょらあよ。その地域イメージいうがぁが、山や川や人や商品や馬路村の全部ながぁよ。ルーラルアメニティーながぁよね」

 この計画は、本年の7月に入札が行われ、業者が決まり次第着工され、来年の7月には柚子の新しい加工工場ができ、順次、宿泊施設やその他の付属施設を着工する予定だ。総工費25億円の大事業である。建設については、東谷さんは少しも焦っていない。

「いつまでたっても造り続けているというのがええと思うがよ。簡単に出来上がらないほうが、楽しみが続くやろう」

 ついうっかり忘れてしまうが、馬路村のサクセスストーリーは行政と密接な連携のうえで事業を推進してきたとはいえ、農業協同組合が主役であるということだ。

 大型合併が続くJA改革は、信用(金融)と共済(保険)が柱になっている。コマーシャルも金融機関としてのJAバンク、有利な保険としての共済の宣伝が多い。肝心かなめの販売、つまり農産物の生産と販売の分野は狭くなっている。農産物を扱うだけでは、JAの組織は維持できない、金融を主流にしていくと言う考え方だ。ところが、この小さな村の農業協同組合は、行政が合併しないと宣言する前に、近隣のJAのどことも合併しないことを決めた。つまり、金融で飯を食うのは潔しとせず、あくまでも額に汗して、土地を耕し、農産物を育て、それを加工して生きることを宣言している。

「いざとなったら、信用と共済の事業は、信連か、あるいは地元の金融機関に引き取ってもらってもいいと思う。馬路村で金融事業は成り立つはずはなく、不要ながぁよ」と東谷さんは、他のJAとは全く反対のことを言う。しかし、考えてみれば、もともとのJAの精神はここにあったのだ。

“馬路村は日本を救う”といったのは、お世辞ではない。馬路村が刺激となって、日本の過疎の町村に勇気とやる気を起こさせ、知恵を絞って自立の道を歩ませることができたら、日本は再生する。

 馬路村は、日本人が本当の日本人であることの大切さを語り掛けてくる。

かがり火No99 p4掲載記事

このような農村景観も、人が住んでいるから保てるのだ。

“小規模の村であるがために国に迷惑を掛けたことがあったか”と、

泰阜村の松島貞治村長は言った …

「『かがり火』は合併に反対している市町村だけを取り上げて、推進しようとい
う町の言い分を少しも紹介しない」というご不満を、読者の方からいただいた。
 それは違うのである。合併のメリットを熱く語ってくれる町村があるならば、いつでも取材にお伺いしたいのである。いまのところ、合併を決めた自治体は、このままではやっていけないから合併せざるを得ないという消極的な理由なので、合併を正当化する論拠が希薄なのではあるまいか。ヘンな例えだが、嫌で嫌でたまらない相手なのに、親が借金している人の息子だから、泣く泣く嫁がねばならないという三文小説に似ている。
 合併をしないと宣言している村や町に共通しているのは、どこも過疎で、小規模の自治体であり、これといった産業もなく、財政も厳しいということだ。
なかには発電所がある優位性を盾に合併を拒否している町もあるが、多くは、
地方交付税が減額されれば、たちどころに行政サービスが窮屈になるところば
かりである。そんな不利な条件の町や村が、なぜ合併をしないで、自立の道を
歩もうとしているのか。これは合併だけではなく、将来の日本の国のかたちを
考えるうえでも極めて重要な点ではないか。
 ということで、今回は、“自律”の道を選択した長野県泰阜村村長・松島貞治
さんの話を聞いた。

“村民の幸せを考えるなら、合併という選択肢はない”と
断言する松島村長。
松島貞治
昭和25年、長野県泰阜村生まれ。53歳。
高校卒業後、泰阜村役場に入る。
平成6年、村長就任。現在3期目。
満州移民の悲惨な歴史があった
 長野県下伊那郡の泰阜村は、人口およそ2200人の小さな村である。村の西側には天竜川が流れ、渓谷も深く、19の集落は標高300mから700mの地に散在している。合併の枠組みがどんな組み合わせになったとしても、周辺部になるであろう運命からは免れないような地形にある村だ。

「いまは全国のどこの市町村の首長にとっても、難しい決断を迫られていると思いますが、私は市町村合併を考えるとき、どうしても頭から離れないことがあるのです」と言って、松島村長が語ってくれたのは、戦前の満州開拓団の話だった。

 統計資料によると、泰阜村の人口がいちばん多かったのは昭和10年の5884人。村にはこれだけの人口を支えるほどの耕地はなかった。過疎どころか過密だったのである。ちょうどそのころ生糸価格が暴落し、村の主要産業だった養蚕が大打撃を受け、村は瀕死の状態に陥った。狭い耕地と過密に苦しんでいた泰阜村が選択したのは、国の満州移民計画に従って、広大な土地を有する満州に村民を送り、泰阜分村を建設するということだった。いま考えれば、何と無謀な、荒唐無稽な計画だろうと思うが、当時は大東亜共栄圏を夢見ていたわが国の、れっきとした国策だったのである。

「泰阜村は農林省の指定村となって、昭和12年に挙村体制で村民1200人を満州に送り出したんです。昭和14年には、現地に学校も開校され、順調なスタートだったというのですが、昭和20年8月9日のソ連の参戦で、たちまち大混乱、死の逃避行となって満州をさまようことになったのです。結局、送り出した半数を超える632名が犠牲となり、そのうえ残留孤児の問題も残すことになりました。孤児の肉親探しはつい最近まであったんですよ。貧しさの歴史とはいえ、あまりにも悲惨です。私は戦後生まれですが、当時の村長の苦悩や、大陸を流浪した泰阜村民を思うとき、無念さと怒りがこみ上げてきます。私には、なぜか満州開拓と、今回の市町村合併がオーバーラップして映ってくるんです」

 いつの時代も悲しい目に遭うのは、国策を決めた人たちではなく、無名の国民であることに深い憤りを覚えるともいう。

「20年後、30年後、私はばかな村長だったと批判されるか、あるいは褒められるのか分かりません。ただ私は、国から指名されたのでも、県から推薦されたのでもなく、泰阜村民から選ばれたんです。私の仕事は、泰阜村民を守ることなんです。村民を守るためには、一日でも一時間でも長く独立村として存続していくしかないと思っています」

 昭和30年代からバブル崩壊までの首長の仕事は、霞が関に陳情に行って、補助金をいち早く多く獲得し、道路を造ったり橋を架けたり、公共事業を次々と導入することだった。これは、ある意味では楽な行政手法だった。首長としての真価が問われているのは、実は、いまなのである。満州に住民を送り出すべきか否かと同様の判断を、いま迫られているといってもいい。それを“国が決めたことだから……”と、唯々諾々と従うのでは、何のための首長かと言いたくなる。

「私は、地理的条件からいっても、歴史を振り返っても、市町村合併を安易に受け入れることは村民の幸せにはならないと思っています。今度こそ、国の方針に沿えなくても、村民の幸せを第一に考えたいのです」

 本誌に登場いただいた首長は自立を選択した人たちが多いが、圧倒的に少数派である。半数とはいわないが、10%、せめて5%でも、松島村長のような合併に反対の意思を表明すれば、大きなうねりが生じるのではないかと思う。少なくとも、この国の将来のあり方について真剣に討議されるのではないかと思うのだ。

泰阜村は、畳の上で死ねる福祉の村

 昭和恐慌のころは、泰阜村の暮らしは苦しく、学校を休んだり、弁当を持ってこれない子どもも多かった。学校の先生の給料を払えなくなり、先生方に給料の一割を強制寄付してもらったこともある。何も戦前だけではなく、松島さんが役場に採用された当時も、はなはだ厳しい状況だった。

「私が役場に就職したのが昭和43年の5月、正式採用になったのが46年の4月でした。なぜなら当時は、財政再建団体に指定されていて、47年に債務を完了するまで、村の財政は各種の規制の下に置かれていて、採用もままならなかったんです。消耗品を使うにも制約があったし、他の町村の職員ならば公費で負担するところを、私たちは個人負担ということがありました。

 でも雰囲気は決して暗くなかったし、再起不能という印象でもなかったです。いまは財政再建団体になれば取り返しのつかない屈辱のようなイメージが定着していますが、私たちは再建団体を経験しているから、地方交付税の減額など厳しい条件を突き付けられても慌てふためかないでいられるのかもしれません」

 こういう厳しい財政にあるなかで、泰阜村が福祉の村として全国的に有名なのは、やはり歴代村長の英断によるものだろう。

 介護保険がスタートしたのは平成12年の4月だが、その16年前に、すでに村では非常勤ながらホームヘルパーを雇用し、在宅入浴サービスを始めている。昭和61年には診療所や病院への患者送迎を無料にし、63年には老人医療の診療所窓口負担を無料(村が肩代わり負担)にしている。平成元年から介護保険スタートまでは、泰阜村ではお年寄りがどんな福祉サービスを受けても無料でやってきた。

「泰阜村は国より20年早く進んだ高齢化のために、“介護”などという言葉がないころ、ましてや“介護の社会化”などという言い方が皆無のころから、在宅福祉、医療に取り組んできたんです。

 村のために営々と働いてきた高齢者の方々には、最後は自宅を安住の地としてもらいたいと思っています。平成2年に村が調査したんですが、お年寄りたちは、倒れても都会の子どもに迷惑や負担は掛けたくない、極めて少ないが国民年金が頼り、施設で長生きするより家で最期を迎えたいという方がほとんどでした。

 福祉に重点を置いていると、“福祉だけにお金を使わずに、若者対策にも使え”などと言われるのですが、データを見ていただければお分かりのように、在宅福祉の予算は約9300万円です。福祉関係は補助施策も多くあって、52%の4890万円は補助金であり、村の支出は3300万円です。一般会計約25億円の村で、高齢者の在宅福祉に約1億円を使っていることになりますが、決して多額ではないと思います。学校運営に1億3000万円、保育園運営には8000万円、これらと比較しても突出しているとは思いません。福祉にはお金が掛かるという言われ方をしますが、実はそれほどでもないんです」

 現在、泰阜村は高齢化率38%でありながら、一人当たりの老人医療費が全国一低い長野県で下から2番目、国民健康保険税は県下最低で推移している。

「山と川と谷で分断され、都会からはるか離れた山村でも、このような医療、福祉サービスができるのも、そこに自治権があり、住民に近いところで政策決定ができるからなんです。それなのになぜ、政策決定の場をわざわざ遠くにする市町村合併を推進するのか理解できません」

“法律や制度は、現場がつくる”これは松島村長のモットーだというが、まったく、そのとおりだと思う。

山村は、社会主義のほうがいい

 松島村長は小規模自治体であることの意義を、機会あるごとにメディアに発信しているが、こんなことがあったという。

「朝日新聞に、小さな村の存在理由を寄稿したことがあるんですが、おおむね賛成という意見が多かったなかに、匿名だったのですが、“都会の税金で養ってもらっているくせに、生意気なことを言うな”というような手紙がありました。本気でこういうことを思っている人がおるんですね、都会と田舎の溝がどんどん広まってきているなと感じましたね」

 戦後の経済成長は、東京への一極集中で、人口も富もあらゆるものが偏在してしまった。物の考え方も、経済効率を優先する都会的な発想に凝り固まってしまった。反対に、山村は人口が減少し、経済効率の悪い地域となってしまった。

 確かに最近は、「田舎は補助金で、のうのうと暮らしている」「そこまで不便なら、何も山間地に住むことはない、都会に出てきたらいいじゃないか」「山村に住んでほしいとお願いしているわけじゃない」「過疎だ過疎だというけれど、過密のほうがよっぽと大変なんだ」というような意見を言う人が増えている。こういう暴論を吐く人たちは、地方の発電所でつくる電力で東京の電車が走っていることを知らない。地方にあるダムで都市の水道が賄えていることを知らない。

「いまのままでいくと、日本という国は頭と心臓ばかりが肥大して、末端の血の巡りが悪くなって、足先から壊死していく国になってしまう心配があるんです」

 もともと都市と地方は対立する概念ではない。地方がなくして、都会の生活は成り立たず、都市がなくて地方が成立することもあり得ない。ところが、近年、地方の過疎が進んでいることに対して、“そんな不便なところに住んでいる人間が悪い”という論調が広がりつつある怖さを感じるのだ。

「小泉改革の民営化路線は、ますます田舎を衰退させると思いますよ。現に、泰阜村では乗客が少ないということで、路線バスは廃止されたし、国鉄の民営化で電車の本数も減りました。乗降客の多い駅に停車する特急が中心のダイヤになっていますから、飯田市に出るのに朝8時の電車に乗れないと、次は11時まで待つしかないんです。この辺りでは携帯電話が使えない地域でありながら、公衆電話はどんどんなくなってしまった。ATMは地元の農協と郵便局にあるだけです。地元の地方銀行に、村内の土地を無償で提供するからと設置をお願いしても、断られるのです。

 合併推進についての国の説明の一つに“生活圏の拡大”があります。村の人にも飯田市に通勤している人がおりますが、それは車に乗れる人の話で、自動車に乗れない弱者はますます暮らしにくい村になっているんです。山村では、行政が民間の役割を果たさなくては、住民が生きていけません。これを私は、山村の社会主義と表現することにしています」

 山村を社会主義で運営するのは卓見だと思う。都会の論理をそのまま田舎に移転したところで、無意味なのだ。徴税権を移転したところで、すでに徴税の対象がない。サルやイノシシにでも課税しない限り、税収が増える見込みはないのである。

泰阜村は決して過疎に甘えていない

 都市に住む人間が過疎地に住む人間を否定的に論ずるときに持ち出すのが、過疎の村と都市を比べると、一人当たりの歳出額にあまりにも大きな開きがあるというのがある。つまり、逆差別ではないかという主張なのだが、この意見は松島村長も気になるようであった。

「わが村の隣は飯田市で、人口は10万8000人ですが、一般会計の歳出額は人口一人当たり39万円です。それに比べて泰阜村は119万円。この3倍の開きは、やはり国民の理解を得るには難しいかもしれません。私どもはせめて2倍ぐらいまで縮める努力が必要だと思います。ただ、現在の地方自治制度では、市も町村も同じ住民サービスを提供することになっているため、小さい規模だからといって、すべて安く済むとは限りません。例えば、特別職は市も村も報酬の額こそ違っても、人数は同数の4人です。泰阜村のような地形では、児童の数が少なくても小学校は2校を運営しなければなりませんし、保育園も2カ所を公設で運営しています。当然ながら行政経費が割高になるのは否定できません。だからこそ、地方交付税も段階補正という制度で調整されているのです」

 日本全国どこに住んでも同じレベルのサービスを受けられることは、贅沢なことなのだろうか。そうではあるまい、これこそ世界でも冠たるわが国の地方自治の制度なのだと思う。しかし、過疎地に住んでいる人間が甘えてはいけないという自戒を込めて、泰阜村ではぎりぎりの削減と節約を実行している。

 地方交付税は、平成10年度をピークに削減が続いており、平成10年度と平成15年度を比較すると、3億円の削減となっている。この減額分の一部は赤字地方債(臨時財政対策債)で賄われており、1億5000万円は起債で穴埋めされているので、実質1億5000万円の減である。一般会計25億円のうちの1億5000万円の減額がどれほどショックなものか、想像に難くない。地方交付税はまた、平成15年度を基準にしてさらに17%減額されるだろうという予想のもとに泰阜村では自立計画を立てている。その一例を示すと、下記のようなものである。

・平成14年9月の議会で、「助役を置かない条例」を制定した。村議会も平成15年4月の選挙から定数を2名少なくした。これによって、1600万円の削減となった。

  • 平成9年度から平成14年度までに、一般職員を15名削減した。助役、議員、一般職員を減らしたことで、1億円の削減となった。
  • 特別養護老人ホームや保育園の運営を民間に委託の予定。
  • 村長等特別職報酬削減(5〜10%)、議会議員報酬削減(5〜10%)、職員は平成25年度までに8名減らす予定。
  • 村内補助金、交付金を原則20%削減。

 泰阜村が削減した年間予算は、0・8%、これを国に当てはめてみると4000億円となり、霞が関の課長3万4000人をクビにしなければいけない勘定になるということだ。

村内のどこを歩いても、のどかな雰囲気が漂う泰阜村。合併は、気概のある国民を育てない

 来年3月の合併特例法の期限が近づいてきても、一向に進まない合併に国は焦り始めているようだ。平成17年の3月を過ぎても合併できていない市町村には、知事が勧告権を持つなど新しい法案も準備している。最初はアメとムチを使い分けていたが、だんだんムチとムチで威嚇するようになった。

「国は小規模町村では駄目だというので、どこが駄目なのか挙げてほしいと言うと、専門的職員がおらんから駄目だと言うんですね。専門的職員がおらん役場が、どんな迷惑を掛けているというんでしょうか。専門的なことは、それこそ専門家に頼めばいいのであって、橋梁やトンネルの設計ができる専門技術者がおるよりも、側溝が詰まってどうしようもないとか、道路に土砂が崩れて困ったというときに、迅速に行動して一緒に解決する職員がいることのほうが大切なんです。それが行政だと思う」

 どうも、国はなんだかんだと難癖をつけているようにも思えるのだ。確かに、役場には法律や条例を解釈して、その案件は何の法律の第何条何項に違反しているとたちどころに指摘できる職員はいないだろう。しかし、それが何だというのだろうか。

「条例をきちんと読めないやつがおるとか、条例をつくれないやつがおるので、小規模町村は駄目だというのは、現場を知らないからです。法律に詳しいだけでは、血の通った行政ができないんです」

 面白い話を聞いた。泰阜村の役場に通じる道は坂になっていて、その勾配率は7%を超えている。国の基準は、7%を超える道路は駄目ということになっていて、たった1%の勾配率のために、膨大な費用を掛けて迂回路を造らねばならないということになるのだそうだ。法律に詳しいとは、こういうことをいう。

 国は教育基本法を改正して、愛国心のある国民、気概のある国民を育てたいと言っている。また、事あるごとに、“都市と地方の共生”を喧伝している。しかし、この合併推進を見る限り、まるで正反対の政策ではないか。“合併したほうが経済的に楽になるから、合併しなさい”という国のお勧めにハイと素直に従う人間が、気概のある人間といえるのだろうか。むしろ、“寄らば大樹の陰”で、計算高く、調子のいい人間ばかりを育てることになるのではないか。

 それよりも、苦しくても自立してやってみるというほうがはるかに根性がある。筵旗を立てて霞が関に押し掛ける人間のほうが、心底、日本を愛しているといえるのではないか。

 ある特攻隊員の遺稿を読んだことがある。おおよそ、次のような内容であった。

 いよいよ出撃という日になって、自分を納得させようとしているが、どうしてもお国のためとか、天皇陛下のためと考えても自分を納得させることができない。ところが、ふるさとの山河を思い浮かべ、自分の両親や妹や弟のためと思うと、死ぬことが怖くなくなる。自分が死ぬことによって、美しい山里の風景と、家族が守られるならば、悠然と死地に赴くことができる という文章だった。

 ふるさとの町や村とは、かくまでに大きな存在なのではないだろうか。

かがり火No99 p12掲載記事

議員辞職を申し出た日の記念写真

(2塚塚2年12月27日)

私が心を込めて彫刻刀で彫った、

デイサービスセンター「おらとこ」の

玄関先の看板。

野入美津恵/1950年、新潟県生まれ。
1995年4月から2002年12月年まで、大山町議会議員。

2003年、町長選挙に出馬、惜しくも落選。

障がい者もお年寄りも赤ちゃんも、みんな一緒にお預かりする

「おらとこ」●富山県大山町  野入美津恵 1月1日は、誰にでも毎年決まってやってきます。そのたびに、今年こそは、今年こそは……と、誓います。私にとって昨年のお正月は、人生の中で忘れることのできない年の初めとなりました。

 2003年の初め、わが町の町長選に出馬することを前年末に記者会見して迎えた新年。暮れも正月もない年でした。2期・7年8カ月勤めた議員生活から、町のトップを目指し、挑戦する私がそこにいました。

 2003年1月19日の投票日、見事に落選。

 町長選の公約の一つに、「空き家を改築して、地域密着型の介護施設を」と訴えていました。『町長になれなかったけれども、やれることがあるではないか』と思い、公約実現のために空き家探しが始まりました。落選から2日目のことです。

 今思うと、敗戦の弁を語っている自分がいる傍ら、『天の声』ならぬ『声なき声』を頭の後ろから聞いていたような気がします。そんな声に突き動かされるように、行動する私。

「あなたがやることなら貸してもいいよ」と言ってくれたにもかかわらず、その相手から断りの電話。でも、くじけませんでした。やっと見つけた3軒目の家。そこが、今の私の新しい生活の場になっています。

 苦労話は人を疲れさせるような気がします。が、ときには元気にしてくれるかもしれません。私が365日、全速力で駆け抜けた(今も)話を聞いてください。

 空き家探しと同時に、NPO法人の設立に向けて奔走しました。お金も土地も担保もない私ですが、後で苦しい思いをすることなど、その時は微塵も感じていませんでした。

 2003年3月2日に設立総会。3月26日にNPO法人の認可申請。デイサービスセンター「おらとこ」の始まりです。パソコンに触ったこともない、携帯電話も使っていなかった私にとっては、想像もしていなかったことでした。

「やると決めたらやる!」そんな思いでパソコン教室、ヘルパー2級の講習へと走り回りました。同時に、空き家改築のためのお金と、当座の運転資金を集めなければなりません。当座は、最低でも1千万円は必要だと思っていました。慣れないパソコンでお願い文を作成したり手紙を出したりと、今思うと自分ながら、「よくやった」と褒めたくなります。しかし……事業をするのは、そんなに甘くはありませんでした。財産がなく、担保を持たない人には世の中、冷たかったですね。当たり前なのかもしれませんが、

11月に催した津軽三味線の演奏会。「おわら節」で踊り出す

人もいました。私には、後にも先にも、資金集めのつらさが忘れられません。国民生活金融公庫の窓口に行った時は、感触として“いける”と思いました。……が、駄目!! 銀行3行にも断られました。車の中で何回涙を流したことか。どこも、誰もお金を貸してくれませんでした。それでも改築が始まります。

 NPO法人の認可は、5月27日。法人登録は5月28日に済ませました。いよいよ改築が始まります。開所の予定は7月23日。もう、日がありません。

 人には何事もなく事が運んでいるような顔で接しながら、心では泣いていました。知らず知らずに痩せていたようです。改築の入札では、工事金額が約1700万円になりました。

「どうしよう、どうしよう、でも、みんなに知られたら駄目! 何とかなるさ!」……何と無謀。

 7月の時点では、カンパや出資金などを合計して500万円ほどでした。ここからが、怖いもの知らずの私の本領発揮です。銀行に行き、「担保は野入美津恵です」と、恥ずかしくもなく言い返す。しかも、胸を叩いて。

 世の中、捨てたものではありませんでした。『捨てる神あれば拾う神あり』。そう、拾ってくれる人が現れました。さすがの私も、精神的には最高に参っていたころです。

 支払いの金額が全部そろったのは、「おらとこ」が開所してから1カ月がたとうとしているころでした。国民生活金融公庫からの700万円、上市信用金庫からの800万円、そして、野入の友人からの300万円の、合計1800万円です。これはすべて工事費に支払いました。

 大きな借金ですが、借りることができたことがうれしく、金額の多さはあまり気になりませんでした。

「一生懸命働いて、まじめにしていけば必ず返せる」、今もそう思っています。

 お金の苦労を書けばページが足りません。それよりも、教訓として言えることは、「一度決めたらやり通すこと」。それが人を動かす原動力になると思います。

 ただ、当時は県庁も銀行もNPO法人にはとても冷たかったです(今は少し改善されました)。同じ仕事で、やり方も同じなのに、有限会社や株式会社、または個人にはお金を出していました。何故でしょうか? NPO法人をつくりなさい!と国や県が言っておきながら、とても不思議なことでした。

 現在までに、出資金やカンパの総計は900万円を超えていますが、運転資金に使っているため、どんどん減って減って、残りがあと少しになりました。

 スタッフのほうはあまり苦労しませんでした。ご縁のある人が集まってくると思っていたからです。いい人・悪い人は、すぐには分かりません。人選びも自分の甲斐性です。見る目が試されますし、育てることも問われてきます。

 お互いに今は育ち合っています。だって、スタッフだって私に対して「思っていた人と違う」と感じているかもしれません。

 贅沢を言えばきりがありません。私に与えられた人でやることが、今は大切と考えます。

 何事にも前向きな(と、自分で自分を励ましながら思っています)ことが、私の取りえです。

 苦労というよりも、人生を楽しませてもらっているのかもしれません。おかげさまで、あまり気にせず、くよくよせず、明るく過ごせる私は幸せ。

 トラブルは家探しの時からたくさんありましたが、今となっては楽しい思い出です。

 私は思います。トラブルがあるから今がある。何かが起きるたびに、「ア、神様が私を試している、負けないぞ!!」と、ますます力がわいてきました。負け惜しみでもなく、本当に不思議な出来事です。怒りが私の原動力? そんなときもあります。

 でも、一人では生きられません。過去を振り返れば、どれもこれも人様のおかげで今の自分があります。

 最後に、何故、これほどまでに私が福祉にこだわるのか?  お話ししたいと思います。

 さかのぼること約45年前の、新潟県能生町筒石。まだ子どもの私がいます。そのころ、わが家は貧乏に浸っていました。兄弟6人(1人亡くなり実際は5人)。父親は、しがない漁師。母親は、半農半漁の家仕事。

 そんな小さいころから、「勉強しなさい」を言われたことがなく、「仕事を手伝いなさい」の毎日でした。周りを見れば、何故か自分ばかりが手伝いをさせられているような気がしました。

『世の中にどうして貧乏と金持ちがあるの?』と、不思議な思いをいつも親に聞いていた気がします。貧乏だからこんなに手伝いさせられている! そう思ったのでしょうか。

 そんな子どものころの夢が、『歌手か総理大臣』。今となっては、「かなわぬ夢のまた夢」です。

 もう一つ、あまり話すことがなかったのですが、私の兄弟のいちばん下の弟は障がい者です。3歳離れているのですが、

小さい時は、母親がいつも病院に連れて行ったり施設に行ったりしていました。そのときは、私もよく一緒に連れて行ってくれました。

 そんな折々に、弟の施設へ行った時に感じた思いや見た光景が、今の私の福祉に対する考えに影響しているといってもいいのではないでしょうか。

 はるか昔のことです。まだまだ、障がいのある人に対しては理解があまりなく、また、本人や家族の人たちも公にはしたくないと思っているころの話です。

 施設を訪れるたびに、私の心の中は違和感でいっぱいでした。言葉ではうまく表現できませんが、ひと言では言い表せない【《】福祉【》】に対する思いが胸に残りました。

 ただ施設にいるだけの環境。人として何か変? 子ども心に肌で感じました。今思えば、「かわいそう」という単純なことなのかもしれません。大きくなるにつれ、障がいのある人に対する見方、考え方が、私の意識の中では片時も離れなくなりました。

 私は20歳で定時制高校を卒業し、東京にある障がい者の施設に勤めました。その時も、理想と現実の狭間で随分、悩みました。その人のできる能力までも育てることをせず、ただ、お世話をするのみ。手をかけてあげるだけが福祉ではなく、その人個人の尊厳と人権を守る福祉のあり方。言い尽くせぬ葛藤の末、その施設を去りました。私の人生の中で、福祉にかかわり続けることになった始まりです。

 かわいそう、気の毒、だけでは解決しない、奥深いものだと思います。

 そんな私も、年月の流れで巡り巡って、今、まさに福祉政策と対峙しています。想いと政策が噛み合わない現実、でも、待ってはくれない毎日。だけど、利用者の笑顔や「ありがとう」のひと言で元気になる私。

「おらとこ」は、お年寄りだけではなく、赤ちゃん、子ども、障がい者(児)も一緒にお預かりしています。縦割りの行政に逆らった(?)運営。現在、全国で注目を浴びている「富山型」という運営方法です。

 子どもは子ども、お年寄りはお年寄り、障がい者は障がい者、という枠組みではなく、ひと昔前まではみんなの周りにあった「ふつうの生活環境」。それこそ当然であり、当たり前の社会ではないでしょうか。子どもと一緒のお年寄りの笑顔、とってもいいですよ。

 子どもも、自然にお年寄りや障がい者を受け入れています。笑顔あり、笑いあり、ときにはけんかありと、さまざまな毎日の生活です。

 まだまだ理想には程遠く、かつ、運営は厳しいですが、やり遂げます。

 福祉とお金もうけは、私にはとても難しいのですが、学びながら前に進んでいきます。

「おらとこ」の利用者は、『元気がでる家』そのもので、介護度が皆さん軽くなっていっています。それは、経営者にとってはとても厳しいことですが、私は自慢しています。国や皆さんのお金を、少しでも使わないように運営しています……と。

 それこそ、国から将来、表彰してもらいたいと思っています。(*

 本来、介護保険は在宅重視であり、介護予防の意味でも、元気になっていくということをもっと考えていただきたいものです。

 一般の施設は利用者の介護度を重くして、介護報酬をたくさん頂いている、といってもいいと思います。

 皆さん、現実をご存じですか?

 一度大きな施設をのぞいてみてください。大きくなくても、福祉の現場に関心を持ってください。今回触れなかった、障がい者(児)施設では、もっと悲惨なことが行われているかもしれません。

 暗い話の後に、明るい話を一つします。

 私たちの「おらとこ」は、商店街の真ん中にあります。

『かがり火』は、まちづくり、町おこしがいちばんの関心事ですよね。

 私は、シャッター通りになりかけている商店街で、おせっかいを焼きながら、少しずつにぎわいを取り戻そうと奮闘しています。歩行者天国の実施、夏祭り、秋祭りの開催。

 12月には、商店街のみならず、上滝地区(1000軒ほど)全体でイルミネーションの実施を呼び掛けました。毎日一軒ずつ、灯をともす家が増えてきました。この町にしては、画期的なことでした。2004年度は、もっと増えるだろう、という話が出ています。

 地域が元気になれば、一人一人が元気になれる。一人一人が元気になれば、地域がさらに元気になれる。お金では買えない人のつながり、温かさ、これからもやり続けたいと思います。

「成せば成る、何事も」……自分の人生、自分自身が納得いく生き方をしたいものです。

 後悔のない生き方を心掛けていますが、まだまだ修行が要りそうです。

 みんなが集うNPO法人「おらとこ」として、地域に根差した居場所づくりを心掛けます。

 富山方面にお越しの際は、皆様、ぜひ「おらとこ」にお寄りください。福祉とまちづくりを語り合いましょう。元気がでる家「おらとこ」がお待ちしています。

昨年12月の「おらとこ」のクリスマス会の一コマです。

●障がい者もお年寄りも赤ちゃんも、みんな一緒にお預かりする「おらとこ」

かがり火No98 p33掲載記事

ウオーキングエッセー
自足人生を生き抜く、やまさんの「歩行道・遠く・トーク」
ヨーロッパの歩く旅で学んだこと山浦正昭(カントリーウオーカー)もっと日本人は、スイスの国民から外国人との接し方を学んだほうがいい里にも魅力的な歩く道が

 スイスという国は、世界中の人が観光にやってくるところだが、それだけの努力をスイスの人はしてきたといえる。それは、スイスを横断して600?の道のりを歩いても、実感することができた。

 スイスを観光で訪れた日本人は多いが、全部徒歩で横断した日本人となると、ほとんどいないのではないだろうか。

 スイスは山国だから、歩いて旅するのは大変だと思う人がいるかと思うが、そんなことはない。地図をよく見てほしい。山らしい山があるのは、スイスのほんの一部でしかない。ユングフラウヨッホやアイガーのあるベハンアルプスと、マッターホルンのあるヴァレーアルプス、それとイタリア国境のサンモリッツ周辺ぐらいである。スイス最大の都市であるチューリッヒ周辺も、首都ベルンも、国際都市ジュネーブも、バーゼルもルツェルンも、人の住んでいる町のほとんどは、穏やかな丘の町である。この丘がとても魅力的なのである。アルプスばかりに目を奪われてしまいがちだが、スイスの地方都市もまた美しく、歩いていても快適である。

 かつて家族でスイスを1カ月ばかり歩いたことがある。いちばん最初に歩いたのが、チューリッヒ周辺であった。日本人がすぐに行きたがるグリンデルワルドにも、ツェルマットにも行かなかった。私はあえて、「山ではないスイス」を歩いてみたかった。それと、私の旅のスタイルは、一日で歩いて行ける距離に連続してユースホステルがネットワークされている所を選んでの里歩きの徒歩旅行で、ハイキングでも、観光旅行でもなかったからだ。

 スタート地点は、ラインの滝のあるシャフハウゼンで、なんとお城がユースホステルだった。ラインの滝は、ヨーロッパ最大級の滝で、川がずどーんと落ちていて、ものすごい迫力である。滝のすぐ下まで小舟が運航されていて、近づくことができるし、滝を見る展望台もある。

 1日目はスタイン・アム・ラインまで歩いた。“ラインの宝石”といわれているこの町は、町の中心部の広場にある建物が見事に装飾されている。今では、日本のガイドブックでも少しは紹介されてはいるが、実際に行く人はまだまだ少ない。ここからライン川をさかのぼって、ボーデン湖畔のコンスタンツまで定期船が出ている。ドイツのライン川ほど有名でもなく、船も小さいが、ゆったりとした気分で川の旅を楽しむことができる。

 スタイン・アム・ラインからは、丘や森を抜ける快適な、歩くコースが続く。ほとんどが専用道で、道標もしっかりと付いているので安心だ。スイスの里道に、こんなにも見事な歩く専用道がネットワークされているなんて、全く予想外であった。

 結局のところ、チューリッヒまで5つのユースホステルを結んで歩いた。子ども連れではあったが、安心して歩けるルートで、スイスの田舎道をたっぷり楽しませてもらった。

 この、家族での徒歩旅行では、もう1本、ジュラ地方をバーゼルまで7つのユースホステルを結んで歩いた。こちらはチューリッヒ周辺よりも、多少のアップダウンがある地形だったが、それでも大したことはなかった。フランスの国境にも近く、この地方がかつてはフランスに含まれていたこともあり、スイスでありながらフランスを歩いているようであった。最後に泊まったユースホステルは、森の中の高台にある古城で、部屋の窓からは遠くのほうまで眺めることができた。

 グリンデルワルド、ツェルマットへ行かずとも、歩いてスイスの魅力をたっぷり知ることができたのは、大きな収穫であった。逆に、目を里のほうに向けたことで、スイスの全体像をつかむこともできた。

巡礼の道、歴史の道をたどる

 二夏かけて、スイスを東から西へ横断して歩いた。距離にして600?を、およそ30日、1日平均20?の、ゆったりとした旅であった。山登りはなかったが、長い峠越えのルートは、いくつか体験した。それも、日本のような険しい山のルートではなく、道標もあるしっかりとした山道であった。幸いにも、天候にも恵まれ、順調に峠越えすることができたが、もしも悪天候だったら、やはり相当、大変だったかもしれない。

 コースは、前半がインターラーケンまで、後半はジューネブまでで、それぞれ距離にして大体300?。スタートは、ヨーロッパでも最大級の湖であるボーデン湖畔のクロイツリンゲンで、ゴールのジュネーブもレマン湖のほとりの都市だから、湖から湖への歩く旅でもあった。

 特に前半は、湖が多かった。スイスの湖は、いずれもすてきだった。湖畔の町には歴史的な雰囲気が今でも残っていて、町のあちこちには美しい花が飾られていた。別に、わざわざ観光客向けに美しくしていないところがいいと思った。常に町の美しさに気を配っていれば、自然に観光客は集まってくるものである。チューリッヒ湖畔のラーバーズヴィルでは、教会で結婚式を挙げたばかりのカップルに出会った。この人たちはそのあと、町のお城のレストランでパーティーを行ってから、馬車で新婚旅行に出掛けた。なんともまあ、ロマンチックなものだと、うらやましくも思った。

 8月1日はスイスの建国記念日である。ツークの町で建国記念日を迎えたのだが、この日は建国記念日を祝して花火大会が行われた。日本と違って、なかなか夜が暗くならないので、花火が打ち上がるのは遅い時間である。私たちも夕食後に見物に出掛けたが、湖畔に設けられていた仮設の夜店で、ワインを飲み、生の演奏を聞き、花火が上がるのを待った。なかなか始まらないので、宿へ戻って寝るころになって、やっと打ち上げが始まった。スイス相撲というのも、見物することができた。相撲といっても、ルールはレスリングのように、背中が着いたら負けである。土俵はおがくずだから、倒れ込んだら大変である。男性ばかりでなく、女性の相撲も行われていた。優勝者には大きなトロフィーが贈られる。歩いて旅をしていると、こうした思いがけない光景を見ることができるのがよい。

 スイスを歩いていて、巡礼の道の道標があった。観光案内所でそのことを聞いたら、英語のパンフレットと、スタンプ帳をくれた。この巡礼の道は、スイス国内ではジュネーブまで続いていて、スペインのサンチャゴへ向けての長い長い道である。ポイントごとにスタンプを押す場所を設けていて、私たちも最初のスタンプを押してもらった。書店に立ち寄ったら、詳細な地図が付いたコースガイドブックも売られていたので購入した。ただし、このガイドブックは前半の部分だけだが、いつかは役立つかもしれない。

 スイスでは、このほかにもいくつかの歴史の道のコースガイドブックが売られていた。私たち日本人は、スイスというと、山と湖といった自然のイメージが強いが、歴史の道のガイドブックは思いがけないものだった。写真家の秋本和彦さんが、ある雑誌にスイスの巡礼道を旅したことを紹介していた。

 スイスは、1991年に建国700年を迎えた。1291年8月1日に、スイスの3州の代表が、リュートリの丘で同盟を結んだ。現在この地に35?の「スイスの道」がつけられている。コースは湖畔沿いにブルンネンまで続いていて、スイスの各州がそれぞれの区間に自分の州の自慢の展示物を出している。

 このように、自分の国の歴史やおいたちを、歩く道を通じて知るようになっていることは、とても大切なことだと思った。

道標の充実は世界のトップクラス

 歩いて旅する国として、スイスはトップクラスのおすすめの国である。いい、歩く旅の道が国内の至るところにネットワークされていて、道標もきめ細かく付いているのには感心した。道標の整備度からいったら、恐らく世界一だろう。国が小さいということもあるが、道標が同じ材質、同じ規格というのがすごい。色も黄色で分かりやすい。重要地点の道標には、次の目的地までの所要時間が入っている。ただし、これはスイス人向けで、私たちみたいに足が短い(?)と、これより多くの時間がかかるので、余裕をもって歩くことが必要だ。コースを歩いていれば、道に迷うことも、道が荒れていることもないので、心配無用。日本のように、いくらコースとして道標を付けても、人が歩かないとすぐに荒れてしまうということがないからいい。

 歩く人のための宿も充実している。私たちはユースホステルだけを利用したが、環境の良い場所にあり、食事の提供もあり、快適な宿泊だった。湖畔の一等地にあったり、木造の伝統的シャーレー形式の民家であったり、申し分がなかった。いちばん多く泊まったのが、インターラーケン近くのブリエンツにあるユースホステルで、2回あわせて6泊もした。すぐ前がもう、湖である。建物は木造。私たちが泊まったのは、3階の大部屋で、山小屋のように雑魚寝だったが、この感じがまた良かった。同宿者との交流もでき、夕食のメニューも毎回、楽しみであった。私たちのように何泊もしている人たちがいて、ずいぶん親しくなれた。私たちは、泊まっている子どもたちの似顔絵を描いてあげたり、折り紙を教えたりして、住所も聞いたり、仲良くなることができた。スイスの人は、たいていの人は英語は普通に話せるので、片言の英語でも、なんとかなった。

 日本人も、もっと国際社会に入っていくためには、もっと英語が話せるようになることは必要だと思う。うまくなくてもいいから、積極的に交流しようという気持ちが大切だと思う。ヨーロッパでも、オランダや北欧の人たちは、英語を普通に話せる人が多く、特に、旅行に来ている人たちは、感心するほど英語が上手であった。

 日本に旅行に来ている外国人は、周りの人に気軽に話し掛けることは、しにくい。話し掛けても、たいていの日本人は駄目である。そうなると、外国人の旅行者は、日本人は英語が通じないと思ってしまう。だから、何か聞きたいと思っても、聞きにくくなってしまう。それでも日本人と違って、言葉が通じないことをあまり苦にしないようである。でも、日本人は、言葉が通じないと心細くて、パッケージツアーならいいが、個人で自由に旅行できる人は少ない。

 スイスが、多くの旅行者に人気が高いのも、景色がきれいということもあるが、旅行者に気持ち良く過ごしてもらう心くばりが感じられるからである。誰に会っても、誰に聞いても、旅行者に親切にすることが当たり前になっている国は、旅行者にはとても安心で、快適である。こうした点を学ぶためにも、もっと日本人は、個人でスイスを旅して、そうしたスイスの人の姿に、もっと接するべきだと思う。いつまでたっても、団体でゾロゾロと、有名観光地をカメラを下げてパチパチと撮るだけの観光旅行は、いいかげんにしてほしいものである。

 もともとの観光は、「国の光を見る」ことである。観光名所だけでなく、その国の人たちの生き方を学ぶというのも、観光の大切なところであることを、もう一度認識してほしい。スイスという国から、もっと日本人が学ばなくてはならないものが、たくさんあるように思う。

 600?を歩く道のりで、私たちも少しはスイスから学べたような気がする。
かがり火No97 p24掲載記事

中央が地方を見習う時代矢祭町の役場職員は、紛れもなく“公僕”である。

 黒澤明監督の名作『生きる』は、下町の役所の窓口の場面から始まる。雨が降れば水があふれて、危なくて不潔でしようがない暗渠をどうにかしてくれという住民の苦情を、役所はものの見事にたらい回しにする。市民課ー土木課ー公園課ー衛生課ー下水課ー道路課と、住民は延々とたらい回しにされた揚げ句、最後は市会議員、助役を経由して、元の市民課に戻ってくる。思わず噴き出してしまうが、行政の煩雑極まりない機構と、公務員の無責任さを象徴しているシーンだ。

 さすがに現在では、地方自治体の改革はずいぶん進んで、映画にあるようなたらい回しは少なくなった。遅レズ休マズ働カズがいちばんという風潮は過去のものとなりつつある。しかしながら、まだまだぬるま湯に浸かっているような役場もあって、電話をすると、終業時間を数分過ぎただけで、“本日の業務はすべて終了しました”と録音テープが回り出す役場も少なくない。日本の公務員は約400万人。霞が関の官僚から役場職員まで、一体、何人が“公僕”であることを自覚しているだろうか。あるいは住民から、あの人は“公僕”であると評価されているだろうか。甚だ心細い限りである。今月は、正真正銘の公僕たちをご紹介したい。

本邦初の「出張役場制度」

 役場というところは、終業時間になれば、クモの子を散らすように退庁する職員が多いのだが、福島県矢祭町では8月1日から、窓口業務を大幅に時間延長した。従来は午前8時30分から午後5時15分だったものを、朝は1時間早めに午前7時30分から、夜は1時間延長して、午後6時45分まで受け付けるようになった。

「フレックスタイムを採用したんです。ですから、基本的に職員の拘束時間は変わりません。7時30分に出勤する早番の人は、昼休みは11時から12時までですから、12時の昼休みになっても窓口業務も休むことなく受け付けることができるんです。土・日曜日は、従来も日直はいましたが、書類などを預かるだけだったんです。今度からは平日と同じように各種の手続きをできるようになりました。この制度は超過勤務ではありませんし、休日出勤は振り替え休日を取ってもらうことにしていますので、むしろ今までの時間外手当が減った分、年間にして329万4千円が浮くことになります」と高信栄一健康福祉課長は言う。

 時間延長は、住民の立場に立った改革だが、実はもっと住民側に寄り添った大胆な改革があった。出張役場制度である。

 これは、役場職員83人全員の自宅を出張役場として位置付け、住民は職員の自宅を訪

ねれば、窓口業務を受け付けてくれるというものだ。

「役場から離れている山間部に住んでいる人は、特に便利になったと思います。地元の人たちは、どこの誰が役場に勤務しているか知っていますから、朝、職員が出勤する前に、印鑑証明を取ってきてほしいと頼めば、その職員は役場で手続きをして、帰宅の途中に届けるということです」と古張允助役。

 職員全員の自宅には、「出張役場」と印刷された封筒が常備されていて、その中には必要な書類はすべて入っている。

 この制度は確かに親切ではある、しかし、いかに“公僕”といえどもここまでやる必要があるのだろうか。農業の人は、朝が早いから、まだ職員が寝ているうちに訪ねて来ることがあるかもしれない。夜は夜で、集落の人が訪ねて来たときに、帰宅後の職員は一家団欒の食事中かもしれないし、風呂に入っているかもしれない。のんびりナイターを見ているときでも、「ごめんください。ちょっと戸籍抄本が欲しいんですが……」と言われれば対応しなければならないのである。職員といえどもプライバシーがあるし、ご本人はまだしも家族の人も神経を張り詰めていなければならないのではないか。

「昔から、近所の人の用足しは頼まれていましたから、そんなに負担は感じませんよ。集落の人だって、何も深夜に突然やって来るわけじゃありませんし、これからちょっと行くからと事前に電話もくれるし、しかも、これは何も強制ではないんです。したくない人はしなくてもいいんです」と金澤邦昭総務課長。

 嫌なら断ればいいとはいうものの、職員は実際には断れない雰囲気なのだ。

 根本良一町長は、「嫌ならしなくていいんです。ただ、町民の方たちは、Aさんの家に行ったら気持ち良く対応してくれたけれど、Bさんの家に行ったら断られた。あるいはつっけんどんにされたとか、いろいろ叮尊し合うでしょうねえ」と笑う。町民の信頼を裏切っても構わないのなら、どうぞお断りなさいと言外ににおわしているけれど、矢祭町には、そんな職員は一人もいないという自信があるようだった。

 窓口業務の受け付け時間を延長したり、出張役場制度を導入したきっかけについては、根本町長が遭遇したこんなエピソードがあった。

 ある冬の朝、町長が朝刊を取りに自宅の門まで出たときに、一人の女性が、通りに立っていた。こんな朝早くからどこに行くんだと町長が声を掛けた。女性は、日立市まで日雇いの土木作業員として働きに出ているのでバスを待っているという。冷え込みが厳しい日で、しきりに足踏みしていた。日当が一日8千円、帰宅するのは夜の8時ぐらいだということだった。町長は思った。この女性が役場に住民票や印鑑証明を取りに来るときは、仕事を半日休まなければならないだろう。日雇いだから休んだ分だけ時間給は減らされるだろう。帰宅後では、役場は終わっている。不況だから、仕事を休んだらクビになりかねない。その女性に比べたら、なんと役場職員は恵まれていることか。という感想を町長は高信由美子自立推進グループ長に漏らしたことがあった。行政機構改革のプロジェクトチームに選ばれた高信さんは、この話を会議で披露したところ、斬新な改革案がまとめられることになったのであった。

機構改革の前に、意識改革

 矢祭町の行政機構改革は、町長主導ではなく、選抜されたプロジェクトチームによって、3カ月間の侃々諤々の議論の末に生まれた。古張允助役、金澤邦昭総務課長、高信栄一健康福祉課長、鈴木俊二事業課長 高信由美子自立推進グループ長、藤田宗夫企画財政グループ長、大串肇総務グループ長、金澤邦芳福祉グループ長、それに白石勝夫中央公民館長の9人である。

 なぜ、ここまで厳しい改革案が出てきたのだろうか。

「ご承知のように、平成13年の10月の議会で『市町村合併をしない矢祭町宣言』の決議案を満場一致で可決したことで、本町は一躍有名になりました。以来、全国から行政視察が相次ぎまして、これまでに350を超える市町村が見えております。訪れた人たちは『本当に自立してやっていけるんですか』と口々に聞くんですね。それで、われわれ職員も旧態依然のままでいいのだろうかと危機意識を募らせるようになったんです。まずは、徹底した効率化を図らなければいけない、しかも、行政サービスは低下させられない。合併せずに自立していくためにはどうしたらいいか、毎晩、ああでもないこうでもないと議論をして、出来上がったのが行政機構改革なんです」と、白石勝夫中央公民館長は言う。

 その結果が、業務時間の延長であり、出張役場の設置であった。ほかに、役場消防団の設置や全職員による滞納整理がある。各集落の消防団員も高齢化しているうえ、昼間は遠方に働きに出ていたりする。昼の有事に、敏捷に行動できるのは役場の職員だということで、「矢祭町役場」と染め抜いたハッピを貸与され、定期的に訓練を行っている。

 職員全員での税金の滞納整理も、他の役場でやっているという話は聞いたことがない。就業時間を終えてから、税金の滞納者の自宅を訪問して納税をお願いして歩くのである。これとて、楽しい役ではない。しかし、将来にわたって安心して暮らせる矢祭町をつくるには、いかに納税が大切かを町民に説得して歩かねばならない。中には、倒産やリストラ、あるいは病気などで納税できない家庭もある。嫌味を言われることもある。しかし、職員一人一人が、家庭を訪問して、現実の厳しさを感じながら、納税の責務を語るのであるから、公務員としての責任がひしひしと迫ってくる。ひと昔前の映画の場面のように、机に足を投げ出してのんびりタバコなど吸っていられなくなる。職場に緊張感が生まれたのだった。

 行政機構改革では、このほかに、下記のような改革を進めている。

?将来は職員を50人体制とし、人件費の削減を図るため、平成15年度、16年度は町部局を、左記の5課1室にする。

  • 自立推進課(新設)
  • 総務課
  • 健康福祉課
  • 住民課
  • 事業課

●部局外については教育委員会に教育次長制を廃止し、教育課を設置する。

●平成16年度より保育所・幼稚園の一元化を実施するため、保育所は教育委  員会管轄となり、幼児教育グループに所属する。

●平成16年4月よりデイサービスセンター舘山荘を外部委託とし、組織を社会福祉会の中に入れる。
●平成17年4月より、さらに簡素化を進め、収入役を置かず、住民課を健康福祉課に統合し、町部局は4課1室、部局外は教育委員会1課とする。

●平成17年度より公民館長は教育課長が兼務する。

●平成17年度より学校給食センターは外部委託とする。

●平成17年度より議会事務局の事務局長は総務課長が兼任する。

 ことあるごとに小泉首相は構造改革を口にするが、国の改革より、矢祭町のほうがはるかに先を行っているではないか。

町長の報酬は総務課長と同じ

 これらの機構改革は職員の意識改革がなければできなかった。例えば、議会事務局などは、議会開会中は忙しいけれど、その他の時期は比較的、暇なのである。しかし、昔から部局として存在するから、その席に職員は何の疑問も感じないで張りついてきた。矢祭町では、少ない人数で、しかも行政サービスを低下させないためにどんな機構改革が必要かを考えたとき、これまで見過ごしてきたいろいろな無駄や矛盾がはっきりと認識されるようになったのだという。ということで、平成17年度より、議会事務局長は総務課長が兼任ということになった。税務課は総務課に吸収した。税務は確かに重要な仕事であるが、納税のシーズンが過ぎるとやはり比較的、暇になる。しかも、税金関係は大方はコンピュータが処理してくれるのである。これなども、意識改革がなければ、昔ながらの税務課は温存されたままになっていただろう。矢祭町の機構改革は役場職員一人一人の自己改革でもあるのだった。

 課が統合しただけでなく、係長制度を廃止した。役場では係長という役職があるために、下から順番に決裁を積み上げていかなければならず、往々にして事務を複雑にしていた。スムーズに仕事がはかどるようにするため、係長を廃止し、グループ長制にした。グループ長は役職ではなく、機能を果たすための便宜的な呼称でしかない。

 矢祭町で忘れてならないのは、町議会議員の存在である。先の「市町村合併をしない矢祭町宣言」も、議員提案によって、満場一致で可決されたのである。

 そして、今度は議員の定数の削減が議会で可決された。現在18人いる議員を次の選挙から10人にするという。議員定数の削減は、ほかの市町村でも実施しているけれど、ここまで大幅に削減するのも珍しい。

「そりゃあ、本当の正直な気持ちを言えば、嫌ですよ。しかし、もし、合併したら、矢祭町から出せる議員は2人か3人でしょう。わが町は合併しないで自立を選択したのだから、議員も自ら血を流すのは当然ですよ」と石井一男議長と立花利夫議員は口をそろえる。常日ごろ立派なことをおっしゃっている国会議員の先生方も、こと議員定数削減の話になれば、急に党派を超えて団結して反対する。そんな先生方と比べれば、地方議員のほうがはるかに品格があるではないか。

 さて、最も肝心な財政の見通しはどのようになっているのだろうか。企画財政グループの藤田宗夫グループ長は、次のように分析する。

「矢祭町の経常的経費は約27億円です。これに対して歳入は、普通交付税が2000年度で、20億円、これが2割減の16億円になるのではないかと予測しています。町税収入は過去の実績から6億円の確保は可能で、他の交付金や使用料などを合わせて24億円と見ています。歳入と歳出の差、3億円をどのように確保するかが今度の行政機構改革の大きな目的の一つなんです。歳出カットだけではなく、自主財源を確保するために、私は企画財政ですが、企業誘致のためにあっちこっちの会社を訪ね歩いているんですよ」

 今回の改革で驚くべきは、三役、教育長の報酬の引き下げである。町長の年間報酬は1133万円、教育長は852万円だった。これを総務課長の826万円まで引き下げたのだ。根本町長は「どう考えても総務課長ほど働いておりません」という名言を残した。将来は収入役の廃止も決めている。

 最近は選挙が近づくと、報酬削減を公約にうたう候補者も増えているが、矢祭町は選挙のための人気取りの削減ではない。自立した町を維持するための気迫のある削減なのである。3役の報酬を総務課長まで引き下げた決断について、総務大臣や官僚たちは“恐れ入りました”と素直に頭を下げているだろうか。おそらく、いままでの反応から推測すると、「ポピュリズム(大衆迎合主義)だ」と言うに違いない。エリートたちは自分たちの報酬は決して下げたくないものだから、自ら身を削っている人たちの揚げ足をとってきた。エリートの言うポピュリズムとは、ただの欲深おじさんたちの自己弁護でしかないのである。このほかに審議会も見直しの対象になり、今年度から文化財保護委員会など、町が定める22の審議会委員の報酬はゼロか2割にカットした。

 ここまで徹底的にスリム化を図れば、気持ちに余裕がなくなり、人間関係もぎすぎすしてくると想像する方もいらっしゃるかもしれない。あるいは、町長の強権発動で、下の職員はたまったものでないだろうと同情する読者もいるかもしれない。

 ところが、それが全く違うのである。役場も町民も合併をしないと宣言をしたことで、腹をくくったというのか、肝が据わったというのか、明るく堂々としているのである。

役場が日本を変える

 実は、根本町長は今年の春、5期20年を区切りに町長を引退する決心をしていた。3月議会の最終日前日に引退表明をすることを地元紙の「福島民報」の記者に話していた。ところが、それを知った町民は役場に押し掛けてきたのである。消防団や交通安全協議会の人たちが「町長が辞めたらおれたちもハッピを脱ぐ」と口々に迫って翻意を促した。民生委員も、各種団体の役員も6選に応じてほしいと懇願した。圧巻は100人の女性たちが町長室を占拠するかたちで、「辞めるなんて言わないでください」と涙ながらに訴えたのである。

 町長が、「すでに辞めることを妻と約束したから今さら困る」と言うと、女性たちは町長の自宅から夫人を役場まで引っ張ってきて、ともども説得したのであった。さすがの剛腕の町長もこれには感極まって鼻水でぐしゅぐしゅになりながら、ついに6期目も引き受けることになったのであった。本誌はこれまで多くの首長を取材してきたが、ここまで住民の信頼が厚い町長を知らない。

 片山前総務大臣は根本町長を「目立ちたいんでしょう」と揶揄した。総務省の担当官は、矢祭町の町長や町議会議員は保身のために合併したがらないと言った。

 世の中は偏見と嫉妬に取り囲まれているというものの、今度の矢祭町の行政機構改革を見て、政府はそれでも目立ちたいからやっていると言うのだろうか。

 根本町長は、他の市町村も合併しないで自立したほうがいいなどと煽るようなことは一言も言っていない。ただ、自分の町は合併しないと言っているだけである。

 国のお役人も、もう少し冷静に、あるいは相手の立場に立って想像力を働かせてみたらどうだろうか。もし全国3200弱の自治体が、矢祭町と同じような改革に取り組んだら、どれほど予算が削減され、国力が上がるか分からない。

 今までの地方行政のネックの一つは、「うちの町で補助金を不要といっても、どうせ他の町に回るだけだから、節約にならない。それなら、くれるというものは貰っておいたほうがトクではないか」というものだった。そのために、不必要なハコモノが全国各地に乱立したのである。この地域エゴイズムが日本の地方を駄目にしてきた。矢祭町の機構改革の底流にあるものは、その浅はかな政策への諫言でもあるような気がする。

 矢祭町の機構改革は平成17年度の4月1日を本格的なスタートとして、それまでの15年、16年は助走期間と位置付けている。合併をしない宣言をした矢祭町としては、どんな些細なことであっても難癖をつけられないために、万全の対策をとっているようにも見えた。

 小泉首相は、“改革には痛みが伴うものだ”と言う。なるほど、そのとおりだろう。しかし、痛みは分かち合ってこそ耐えられるものだ。お上が一方的に下々に痛みに耐えよといっても、それは理不尽というものだ、むしろイジメではないか。

 また、小泉首相は、やっと改革の効果が芽を出してきたと胸を張っているけれど、あまりにも遅過ぎる。矢祭町の緊迫感とスピードを見習わなければいけないのではないか。

 根本良一町長は言う。

「いちばん賢明なのは町民です。何が正しくて、何が間違っていることなのか分かるようになったと思いますよ。それに矢祭町住民の純粋性、これが明日の矢祭町をつくっていくと思います」
かがり火No96 p4掲載記j

-『かがり火』サミットより -

『地元学』は、地域づくりの原点である。
講演/吉本哲郎さん
(水俣市役所)

 8月30日、熊本県水俣市久木野の「愛林館」で、『かがり火』サミットを開催しました。参加者30名は、全員の名前と顔がすぐに覚えられる人数だから、和気あいあいの落ち着いた集会になりました。

1971年、宮崎大学農学部卒。同年、水俣市役所に入り、都市計画、企画課、環境課、農林水産課を経て、現在、生涯学習課。 ゲストは、水俣市役所の吉本哲郎さん。水俣病解決のために、縁の下の力持ちとなって吉井正澄前市長を支えた方です。吉本さんの提唱する『地元学』は、本誌の編集方針と非常に似通っていますが、教えられることがたくさんありました。当日の雰囲気と、臨場感をお伝えするために、できるだけお話しいただいた口調そのままに誌上再録いたしますので、想像しながら味わってみてください。

水とごみと食べ物 

 地元に学ぶ「地元学」というのは1軒の家から、自分の家から始めます。なぜかというと、哲学者の内山節さんが「これまで大きな世界に出て行くことが、知的で、立派な人間のたどる道だと思ってきた。だけど、これからは役割の見える市町村とか、家とか、そういう小さな世界で暮らしていくことが、よっぽど幸せではないのか」という問い掛けをしているからです。で、結果的に、私がやっている「地元学」と似通ってきています。

 じゃ、「地元学」って何かという話になりますが、水俣という地域の個性と私がやってきたことと無関係ではありません。

 地域の持っている力、人の持っている力を引き出すというのが地元学。これは、教えないということですね。教えないで、地域と人の力を引き出すということ。

 引き出すというのは、「驚く」ことと「質問する」こと。これだけです。驚くというのは「当たり前のことって、当たり前じゃないよね」っていうこと。住んでいる人は、当たり前と思っていますから、目が行かない。それを外の人が、当たり前でない、初めて見るというまなざしを注いで、驚いて質問していく。引き出していく。

 水俣は源流から河口まで22?。水俣川の流域が水俣ですから、海・山・川があって、海の民、山の民、野の民、そして町の民がいます。地形的には日本の典型です。歴史的にも、工業による都市化・近代化を果たしたという意味において、水俣は、日本の歴史の縮図と見ることができる。だから、地理と歴史を合わせると、水俣は、日本のすべてをぎゅっと縮めたようなところだな、というのが分かってきた。

 そこにチッソという会社があって、水俣病を引き起こしていきます。公式確認は1956年、病気はこれより以前からありましたが。私が、今日みなさんに言わないかんことは、40年近く未解決のまま水俣病という問題が推移したということですね。それで非常に大きな社会問題になったということです。被害者の救済だけではなくて。

 私が最初にやったのは、問題をつくったということです。なぜかというと、問題を間違えば答えも間違うからですね。答えが間違っているんじゃなくて、問題が間違っていると私は思いました。問題をつくるためには、現場に行く、それだけだったと思います。

 1991年までの20年間、私は水俣病については無関心のままきました。もっと言えば、口をつぐんでいましたので、1991年、私は自分に「逃げるな」と言い聞かせて、正面から向き合うということを言い聞かせて、それまで会ったことのない患者に会いに行って、次のように問題をつくりました。

 それは、「生きているうちに助けてくれ」ということと、「被害者を助ける前に、チッソという原因企業を助けねばならないという矛盾」。これは、お金ですね。被害者の救済金。だけどお金をもらっても、家に帰れば生活が待っていますから、この中に、「失った命と体は元に戻らない」という問題。だから、祈りとか慰霊とかをやってきた。それから、「私たちも役に立ちたい、という生きがい、働きがい、社会参加」ですが、40歳を超えている大半の患者が、今でも生きている存在、理由の確認、この問題に、私たちは答えていないということに気付きました。

 そうすると、解決できる問題もあるけれども、解決できない問題もあります。解決できる問題は早く解決しよう。解決できない問題は、水俣という地域社会は、これからもずっとずっと共存していくことだということに気付きました。

 それから、水俣出身であるとは言えないという問題がありました。お嫁さんの話が全部壊れて、就職が駄目になって、農産物も水俣という名前では売れないというのが40年近く続いた。これは相当ひどい影響を地域にもたらしました。

 問題にすべきは、それが患者に行ったのですね、矛先が。原因企業に行かずに。これが非常に問題だと思いました。なぜ、そういうことが起きるのか。今でもよく分かりません。

 ある意味では、人間が住むところじゃなかったと思いますよ、水俣は。もっと言えば、こんなところにいたくないと、私は思っていましたから。20年間、いつ逃げようかと思っていました。「逃げるな」というのは、そういう意味です。

 熊本県庁が入ってくれたから、いろいろなことを一緒にやれたんですけど、水俣市だけではやれなかったですね。

 で、みんなで取り組んできましたけれども、結果的に「水と、ごみと、食べ物に気を付けた環境都市・水俣をつくる」というふうになってきました。

 ここに、水俣病の犠牲を無駄にしないというのがあります。去年亡くなられた田上義春さんという水俣病患者がいまして、その人を1991年に訪ねて行ったら「このままでは、おれたちの犠牲は無駄だ。犬死にだ」と言われました。私はそのとき「あなたたちの犠牲は無駄にしない」と思ったんですけれども、言葉にならなかったですね。なぜならば、どうしたら無駄にならないかという方法論を、私が持っていなかったから。方法論を言わずに、目的だけ言うというのは無責任だと、私は思います。

 結果的に、やってきたことを振り返ってみたら、水とごみと食べ物に気を付けていた。理由は、チッソという原因企業が有機水銀というごみを流して、水を汚染して、生態系で濃縮されて、知らず知らずのうちに、魚から人へ入って行った。決して、決して、患者は浮いた魚、死んだ魚を食べて病気になったわけではございません。魚に入っていると分からずに食べたんですよ。水俣病は魚を食べてなったと、意思の問題にとらえる人がいますが、これは大きな間違いです。

 この悲劇の海と称された水俣湾に、サンゴが生息しているのが確認されました。平成5年だったと思いますが、熊本大学の野島先生に調査を頼みました。そのときに、この生き返ったサンゴの写真を見て、びっくりしました。

 なぜかというと、水俣の再生を環境から始めると、私は決めていましたが、環境というのがよく分からなかった。および環境から水俣の再生ができるか分からなかったですね。だけど、このサンゴは教えてくれました。海はもう始めていたということです。

 二つ目、人間だけが遅れていたということ。だからやればできると思いましたね。20世紀中に、水俣病問題の未解決の問題を解決できるだろうかと非常に不安でした。水俣の再生もできるだろうかと思いました。だけど、私にとってサンゴの再生はすごい確認でした。

 おかげさまで、この10年間で、うそみたいに元気になってきました。今まで下を向いていたんですよ。うつむき加減で、下を向いて話をしていたと思います。だけど、胸を張って堂々と水俣と言えるようになってきた。顔が少し晴れてきた。上を向いて話せるようになってきた。それを「元気」と私は言っていますが、この「元気」は私が言っているわけではありません。患者が言っているんです。杉本栄子さんが「水俣は元気ですばいと、言ってください」と。非常に助かりました。

「愚痴」から「自治」への転換 

 水俣の再生は、あるもの探しから始まりました。これは地元学の一番大きな引き金になる取り組みでした。1991年、地域に自治的組織「寄ろ会」をつくって、新しい役員クラスの人に頼んだんですよ、「役所に陳情はしないでくれ。自分たちで、できることをやってくれ」と。そしたら大混乱。役所は何もしてくれないとか、チッソは何だとか、先輩はどうしたとか、文句ばっかり言うことに慣れちゃった人たちに「そんなことは言うな」と私が言ったものですから。

「じゃ、どうすればいいのか」と聞かれましたので、私は答えました。「陳情というのは、ないものねだりである。その反対は、あるもの探し。地域の資源を確認しようよ」ということで、この地元学の絵地図が出来上がっていったんです。

 記念すべき第一歩ですが、実はこの中に水俣病の言葉が一つも出てこなかったですね、この段階では。人の前で水俣病のことを話すのはタブーだった。役所の中においてもタブーだった時代。それがまだまだ、続いていました。

 結果的に、この自治的組織「寄ろ会」の人たちが素晴らしいことをやってくれた。後で分かったことは、ないものねだりをやめて、あるものを探すというのは、「愚痴」から「自治」への転換だったと思いました。

 どこでも同じと思いますが、愚痴を自治に変えていかないと。愚痴で町が良くなるはずがないと、私は思います。

 次に、水俣の再生を環境から始めると私は考えたんですが、環境がよく分かっていなかった。分かっているという人には聞きたいですね。「では何ですか」と。というのは、家庭環境、社会環境、人間環境、職場環境、学校環境、いっぱいある。

 全然、分からないから調べたら、農業をやっている、うちのおふくろが環境という言葉を使っていないことに気付きました。環境という言葉を使っているのは、私みたいな役人と、大学の先生などの専門家、そしてジャーナリストです。この人たちの特徴は二つあります。一つは、生活の当事者ではない。二つ目は反省をしない。言いっ放し、やりっ放し。

 うちのおふくろは、環境という言葉の代わりに、雨が降ったとか、桜が咲いたとか、鳥が来たとか、霜が降りるのかなとか、明日の天気はとか、そういう具体的なことを言っていましたね。

(絵地図を指しながら)それに気付いて、この地図は私の家なんですけれど、毎日使っている水を調べてみようということで、1991年、私の家を調べました。この自家水源が生活用水ですね。飲んだり、お風呂に使ったり。昔はこの池に流して、水がきれいになって流れて行って、その先に、私の家の田んぼがあって、それで米を作って食べているというのが分かって、薄々気付いてはいたんですけど、明確に分かったのは、この絵地図を作ってからです。

 要するに、これは人のためでなくて、自分のためにやるというのが見えたということです。だから、合成洗剤を使わないようにしようやと、カミさんに言ったんですけれど、カミさんはまだ使っています。理由は分かりますか。落ちるからです。二つ目、ギフトでもらったから、使ってしまわないともったいない。

 うちのカミさんの名誉のために言っておきますけれども、本当に、ずいぶんずいぶん少なくはなりましたよ。でも、ゼロではない。私は、だから、合成洗剤をなくすべきだとか、“べき”という言葉は使わないですね。「あんたは使っている。やめなさい」と言わないですよ。「いや、実は、おれもまだ使っているんだ。だから、どうしようか」と、責めないで、話し合いにもっていくんですね。

 これを責める人がいますね。永遠のNGOと私は言いますが、それから原理主義とか、“べき男”“べき女”とか、いっぱいいますけれど、本当は、自分がどうなのか調べて、「何でできないのか」「じゃ、どうすればいいのか」と話し合いにもっていったほうがいいですね。

 環境課長をやっていましたけれど、本当は、せっけんを使うのを広げることをやらなければいかんのに、何で広がらないのか分からない。難しかったですね。自分の家からやる、そこしか分からなかったです。

 いろいろなことを考えていったら、水に関しては、一つのコスモロジーがあることが分かりました。これは、私が住んでいる集落。45世帯。

 うちのおふくろは環境という言葉を使っていないんです。従って、晩飯を食いながら、うちのおふくろと話して、「地球環境」と言ったら、うちのおふくろは「それは何な」と言うでしょうね。「地球環境なんて、見たことも、食ったこともない」と言うでしょうね。

 見たことも、食ったこともない地球環境から話をする人は、私は信用しません。だけれども、土地の集落、家、これが地球だ。そこを地球にし

絵地図を広げて「地元学」をレクチャーしてくれた天野浩さん(左)と

吉本哲郎さん。

て暮らしている、というふうにとらえるといいんじゃないかなと思いましたね。

 あと、この絵地図で海を下にして川を見たら、川の木のように見えてきました。水俣を再生するというのは、この川の木を元気良くすることだなと思いました。そうしたら、人の体は血のめぐり。地域の健やかさは水めぐりだろう。そんなことが分かってきた。

 他にもいろいろな政策をやってきました。ごみの分別は21種類。行政で77種類。ごみ減らしもやっていますね。エコショップも認定しています。環境マイスターもそうです。環境と健康にいい食べ物とか、物を作る人に環境マイスターの称号を与えています。

 それから、地区環境協定。自分たちの住んでいる地区の環境は自分たちで守る。水俣の山の石、沢の石は、すごくサビが付いて庭石にいいので、暴力団が採りに来ていた。沢の石を採ったり、通学路の石を採ったりするもんだから、「やめてくれ」と村の人たちが言うと、「若いもんをやるぞ」と脅されたりして、困ってたんです。それで地区環境協定の中に制度をつくって、そういう支障のあるところの石を採るのは、村の合意を除いては、原則的に禁止すると書いて、村の人が印鑑を押したんです。そうしたら、ぴたっと止まりましたね。地区の団結が不届き者を排除したんですね。

 これは面白いですね。環境に関する最低限の生活ルール。法律ではなくて、条例ではなくて、自分たちのルール。3番目の約束事。これが大事だと思いますね。

 あとは、役所でISO14001という国際規格を取りました。この規格はいい環境を世の中に広めるためにある。故に、難しいはずはないと、市長に説明して、OKをもらってやりました。説明はそれだけ。要するに、私が分かっていなかったですね。だけど、コンサルも入れずに、常識でやりました。やれますね。

 裏話を言いますと、ごみの分別をしていましたけれど、ごみの分別が一番悪いのが、役場だったんです。ひどい話ですよ。言うこと聞かないですね、役人というのは。意識に頼って、もう駄目だから、大掛かりな仕組みをつくったんです。それだけです。

 次に、公共事業の環境配慮指針というのも作りました。普通、計画段階、工事段階は環境に配慮します。だけど、使う段階、将来の解体・廃棄する段階。ここまで配慮するのはないですね。だから不十分だと思いますよ。環境アセスとか、いろいろあるでしょう。ダムも、将来、壊す段階でどうするんですかね。学校も将来壊すことを考えたら、木造の部分が増えてきますよ。電気の配列も、最初からスイッチを窓側だけ消えるようにするとか。

 あと、家庭版、学校版、旅館・ホテル版、幼稚園・保育園版、畜産版環境ISOと広がりました。水俣独自の仕組みです。

 特に面白いのは、学校版環境ISOで、全国に広がりました。4〜5日前に、学校版環境ISOの最初の全国大会が水俣で開かれました。これは面白かったですね。

 この学校版環境ISOというのは、ひょっとしたら荒れた学校を立て直しますね。それから、子どもの学力が向上しますね。それから、地域と学校がつながりますね。そういう効果がありますね。

1213 それから、保育園・幼稚園版。こんなことをやったら、産業振興につながりました。修学旅行、グリーン・ツーリズム、これはエコタウンですね。

知の植民地にならない 

 1991年から94年まで企画課にいて、95年から6年間、環境課にいて、2000年に農林水産課に行ってやったのが、この元気なむらづくりです。

 元気なむらというのは、人も元気、地域も元気、経済も元気ということ。これは、元気なむらづくり条例をつくりましたが、議会で説明したら、たいへん怒られました。「これは条例ではなくて、文学だ」と。普通は「疲弊した中山間地における活性化に関する条例」とかいうふうになるんですよ。何が何だか分からんから、元気なむらづくりだなと言ったら、「これは吉本が自分の村を元気にするための条例だ」と怒られたですね。何でああいうふうにひねくれるのかよく分からない。

 経済には三つあると思っています。「お金の経済」「共同する経済」「自給自足の経済」ですね。江戸時代には7割、8割ぐらい、昭和初期までは5〜6割は、自給自足と共同の経済はあったんじゃないかな。

 おれたちは豊かじゃないというのは、お金が豊かじゃないと思っているけど、「共同」と「自給自足」、これにもう一度光を当てたほうがいいと思います。元気なむらは、豊かなむらをつくる。豊かなむらの“豊か”は、共同する経済を振興するということで、ここに地域通貨を導入しています。自給自足は、おすそ分けですね。

 あと、いい風景をつくるということと、交流です。いい風景については、イサベラ・バードが東北を旅して、こんなことを言ってますね。

「日本人は朝から晩まで、せっせせっせと働いて、世界で一番美しい国をつくっている」。これをイギリスに持ち帰って、イギリスのガーデニングに大きな影響を与えます。故に、ガーデニングとは農村風景です。

 何を勘違いしたか、日本人はイギリスに行ってガーデニングを勉強して、日本に帰って来て、庭いじりやっていますね。何で日本の農村に行かないんだ。不思議ですね。

 頭石(かぐめいし)で、去年の8月5日から、村丸ごと生活博物館というのをやっています。予算はゼロです。41世帯ですけれど生活学芸員が8名います。生活職人(煮しめつくり、あくだごつくり、イノシシとり、野菜つくりなど)もいます。生活学芸員と生活職人の条件は、「この村には何もないと言わない」ということです。

 そのために、自分で自分の住んでいるところを調べます。で、自分で撮った写真を、自分たちで見ます。写真というのは一点凝視なんですよ。自分の住んでいるところ、毎日見ているところは凝視したことがないんですね。写真を撮ることで一点凝視をするわけです。これ何だろうと。

 で、絵地図を作って、これを基にして生活学芸員等が集落を案内するんです。1000円もらって。お昼にかかるように案内しますから2000円もらう。1000円が案内料。そして、家庭料理はタダではごちそうはするなということで、1000円が昼飯代。

 で、ここでやったことも、振り返ってみたら、「地元学」だったということですね。ないものねだりから、あるものを探す。愚痴を自治に変えましょう。それから、水から調べるということですね。

 水俣で水俣病が起きたですよね。大学の先生たちが調べに来てくれたけど住んでいる私たちは詳しくならなかった。調べた人しか詳しくならないのです。

 だから、下手でもいいから、自分たちで調べましょう。それが、あるもの探しだし、水の行方だと。完璧じゃないですよ。だけどそれでいい。やった人しか分からんよ。だから下手でもいいからやろうやと。それが今の水俣につながっていると思いますね。

 それから「知の植民地にならない」という言葉をつくりました。それは、外の人だけが水俣について詳しくなると、外の大きな力に利用される。そう思いますよ。

 植民地というのは、考えてみると、軍隊が行きますよね。軍隊の前に宣教師が行きますね。宣教師の前に探検隊が行きます。探検隊の中に、地上資源と地下資源のプロがいます。プラントハンターと鉱物ですね。

 地上資源・植物を自分たちで調べないと、外にやられます。当たり前ですね。日本全国、起きていると思いますよ。これ。

 だから、探検隊が外から来るのが一番危ない。近ごろの探検隊は学問と言っていますね。学問に文句はないですけれど、使われ方に文句がありますね。下手でもいいから自分たちで調べようというのは、そういうことです。

 それから、物づくり、地域づくり、生活づくり、これをやるために調べる。生かすために学ぶということです。だから物知り学に終わらない。調べて、考えて、作るというのを繰り返します。

 役所は今まで仕事をしてきましたけれど、考えていなかった。調べていなかったからですね。大学は調べて、考えているけれど、役立てていないですね。一緒にやればいい。そういうことです。

 あと、地元の人が中心です。だけど、外の人たちも一緒に調べてくださいということ。ただし、外から来る人たちは行儀作法が必要だということです。先ほど言いましたように、教えないでください。驚いて、質問して、地域の持っている力、人の持っている力を引き出してください。

あるものを徹底して確認する 

 水俣市に視察に来る人もいっぱいいて、私が案内することもありますけれども、半日案内して「ここは、こうしたらいいんじゃないですか」と言う人がいますね。丁重に帰ってもらいます。行儀が悪い。地元学は否定から入らない。なぜ、そうなのかを考える。3面張りの水路でさえ、なぜそうなのかを考える。魚とか何とかのためだったら、3面張りのコンクリートはいけない。誰でも知っているけれども、なぜそうしたのか。否定から入らないで、“なぜ”というところから入る。これが大事だと思います。

 それから、これは内山さんが言っているけれども、「非文字文化」、これは口伝えですね。こういうのも大事にしようかなというのもありますね。特に、子育てというのは、本で育てているわけでなくて、親から子、子から孫へ、口伝えに伝えていると思いますが、今、核家族化なのか、口伝えがものすごく少なくなっている。それを内山さんが指摘しています。賛成です。同感です。

 あと、耳を傾ける、問いを発する、自分の言葉で語るという定義もあります。

 あとは、このやり方ですが、調べるところを決めて、班を編成して、あるもの探し、水の行方を基本にしながら、写真を撮影して、聞いていく。で、地域情報カードを作って、驚いたこと、気付いたことをまとめて、それごとに絵地図を作成して、さらに調べて、考えて、役立てていくというのを繰り返す。

 で、「地元学」では、作った絵地図は地元に残します。大学なら持って帰るでしょう。「地元学」では持って帰りません。置いてきます。大体、こんなところでやっています。

 結城登美雄さん(民俗研究家・宮城教育大学非常勤講師)が、いい町・いい地域というのは「『いい自然』『いい仕事』それから『いい習慣』。住んでいて気持ちがいい。少しの金でも、にこにこ笑って暮らせる学びの場がある。それから自分のことを思ってくれる友だちが3人はいる。そして、『いい行政』」と言っています。最後のは、私に対する嫌がらせですね。

 時松さん。湯布院で木工をしています。「いい地域とは、自然と生産と暮らしがつながっていて、常に新しいものをつくり出す力を持っているところだ」と。これで分かるように、常に新しいものをつくっていないところは衰退しますね。役所も、地域も、企業も、お店も、商店街も衰退。

 元気のなさというのは、常に新しいものを作ってない。じゃ、新しいものを作るとは何か。それは、あるものとあるものの新しい組み合わせをいいますね。地域にあるものの組み合わせです。故に、何もないところから新しいものは生まれません。

 だから、あるものを探すということが大事なのですが、あるものは二つに分かれます。プラスのあるものと、マイナスのあるものですね。プラスのあるものとは、どこにもないというものがここにある。よそにはないものがここにある。それと、どこにもある。海、山、川とか、人だとかですね。

 要するに、プラスもマイナスも含めて、新しく組み合わせる。これが大事だと思いますが、水俣では、水俣病と環境を組み合わせたんですよ。だから、マイナスを含めて、あるものを徹底して確認する。これをやらないと、地域の個性のある特徴的な取り組みはできないと思いますね。

(写真を見せながら)この人が杉本栄子さん。1991年に最初に会った水俣病の患者で、網元の一人娘、漁業をやっている。中学校しか出とらんというけれども、東大出の哲学者が太刀打ちできない、ものすごい知恵がありますね。

 お父さんは73年に亡くなりましたけど、茂道という集落で水俣病にかかって、そのときにNHKのラジオでマンガン病と言われて、網元の網子が一人も来なくなって、うつる病気と誤解されて、村の中を歩くなとか言われて、網が切られたり、お母さんが病院から帰って来たら、隣の人が崖から突き落としたりとか、半端じゃないイジメを受けて、私は、もう声が出なくなりましたね。話を聞いたら。

 イジメ返しをしたいとは思ったんですけど、しなかったですね。この人は。なぜかというと、亡くなったお父さんが「するな。あん人は、昔はよか人やった。今は時化たい。いつか凪の日が来る。だけど、この時化は長かねえ〜。網元は、木を大切にして、水を大事にして、人を好きにならんばでけん。人の悪口ゃ言うな」と言ったからです。

 本当は親戚からもやられたんですよ。村の中だけじゃなくて。だけど、この網元のおやじは、親戚のことも、村のことも一言も言わなくて、「時化と思え」と。あまりにもひどいイジメに遭って、イジメ返しをしたいんだけども……。

 もう一人、緒方正人さんがいます。子どものころ網元のお父さんが水俣病で亡くなり、だから、チッソは仇だ。敵討ちということで、激しい運動をやった男です。その緒方正人が私に言ったのですけど、「おれがもしチッソにいたら、もしくは役所とか県庁にいたら、バルブの栓を閉めっぱなしで、水銀を絶対に流さないという保証はどこにもない」と言ったですよ。水俣病の患者が、こういうことを言うですよ。ここまで、たどり着いている。認定申請の運動を取り下げて、一人になって、帰って行った男です。

 この人たちに会うときは、肩書を取って行かんと、すぐに見破られますよ。常に試されている。嘘は言えないですね。分からんのは、分からんと言うのが大事です。肩書を持っている人が知ったかぶりをするのは罪だ。

 水俣も、嫁さんの話が壊れて、就職の話が駄目になって、農産物も売れない時代が続いたんですけども、世間から嫌な目に遭ったんだけど、世間は変えられないから、水俣が変わったというふうに、今は思いますよ。どうも、ご清聴ありがとうございました。九州の変差値人間たちが集まった

『かがり火』サミット。

かがり火No96 p10掲載記事

長崎県波佐見町
400年目の危機陶磁器産業の不振打開をツーリズムに賭ける町
 

 毎日のように全国各地で、フリーマーケットやバザー、ガレージセールなどが開催されている。こういう催しは、家庭で不用のものを持ち寄って開いているのだが、会場をのぞいてみると、必ずといっていいほど、衣類、バスタオル、タオルケット、靴下、ハンカチ、スカーフ、湯飲み、茶碗、皿、コーヒーカップ、スプーンセットなどが出品されている。贈答品らしき、ぴかぴかの新品も多い。これらの日用雑貨は、どこの家庭でも押し入れや天袋を整理するたびに邪魔もの扱いされていたに違いない。

 しかし、広場に並べられているこれらのモノたちは、戦前から戦後の日本経済を牽引してきた地場産業の花形だったのである。いま、かつての主人公たちは不当に安い値段を付けられて悄然としている。

 さて、こうなると、これらを生産してきた地場産業の町はどうなっているのか気に掛かる。タオルに関しては中国製品が国内メーカーを壊滅させるということで、セーフガードが発動されたことがあったが、それでは、湯飲みや茶碗や皿を作っている陶磁器の町はどうなっているのか、というのが今月のテーマである。

出荷額は、ピーク時の半分になった

 実は、波佐見町を特集するに当たっては、『かがり火』のネットワークの中でもとりわけ変差値の高い方を紹介されたのがきっかけだった。が、その人物には後ほど登場いただくとして、まずは波佐見町の現状を報告したい。

 長崎県波佐見町は、国内でも有数の日用和食器の産地である。波佐見町の隣は酒井田柿右衛門で有名な有田焼の佐賀県有田町。波佐見、嬉野、三川内、唐津、伊万里、有田一帯を肥前地区といって、窯業の一大産地を形成している。高級食器が売り物で料亭や割烹を得意先としてきた有田焼に対して、波佐見焼は庶民の使用する日用の食器を作ってきた。おそらく、現在、全国の家庭で使用されている食器のうちの何枚かは波佐見焼が入っていると言っても過言ではないだろう。それほど隆盛を誇ってきた地場産業だが、バブル崩壊後、この波佐見焼の需要は大きく落ち込んだ。

 下の表を見ていただきたい。昭和40年から5年ごとの陶磁器関連の出荷額の推移を表したものである。

 出荷額で見れば、平成2年がピークで全事業所の合計が265億だったものが、平成13年には153億にまで落ちた。窯元だけの出荷額で比べれば、148億から71億円と、半分になった(なお、平成14年に関しては統計のとり方が変わって、従業員4人以上の事業所のみが対象になったので比較にはならない)。

 窯元以外の事業所というのは、陶石を砕いて磁器の原料となる陶土を作る土屋さん、泥しょう(陶土に水とケイソウを混ぜて液状にしたもの)で型を作る鋳込み屋さん、石膏で型を作る型屋さん、石膏製の型の中に粘土状の陶土を入れ、機械ろくろにかけて陶器の成形をする生地屋さん、他に土瓶のつる屋さんからギフト用の箱屋さんまで、さまざまな関連事業がある。

 窯業に従事していた人数も、昭和50年には5000人いたが、平成13年には2800人と、半分近くまで減った。

 原因は、いろいろ考えられる。バブル崩壊後の長引く不況、中国、東南アジアからの廉価品の輸入増大、商品開発力の不足、ファストフードなど食のスタイルの変化、何よりも高度経済成長でモノが全国津々浦々まで浸透してしまって飽和状態になっていることも挙げられる。

 こういう状況になると、窯元たちはどんな経営を強いられているのだろうか。波佐見陶磁器工業協同組合の理事長の一瀬龍太氏と専務理事の岩永利和氏に伺った。

「現在、組合に加盟している窯元は51社ですが、組合に加盟せず家族だけで作っている小さな窯元まで含めると120社近くあると思います。組合加盟の窯元はピーク時には64社あったのですが、ここ数年で10社が倒産や廃業に追い込まれてしまいました。どちらかというと大手、準大手の窯元の破綻のほうが多いですね。しかし、全体の売り上げが半減しているわけですから、10社でとどまっているというのは考え方次第では不幸中の幸いで、よく頑張っているとも言えるわけです」と、岩永さん。

 理事長の一瀬さんは、自身が「一龍陶苑」という窯元の社長である。

「わが社も最盛期には90名を超える従業員を抱えていたのですが、現在は60名を割りました。人員を縮小し、経費を圧縮し、内部留保を取り崩してしのいでいる状態で、ボーナスはもちろん出せません。長崎県窯業技術センターと連携して、新商品の開発に取り組んでいるのですが、まだ時間がかかりそうです。いまいちばんつらいのは、社員のみんなに、こうすればこうなるという明るい展望を示せないことです」

いまはどんなに苦労しても、復活の兆しがはっきり見えるものならば、人間は頑張れるものだが、手応えのない日々に、温厚で実直そうな一瀬社長の表情は晴れなかった。

 もちろん、組合は、ただじっとしているわけではない。青年部が、国や県の助成を受けて、新しい商品の開発に挑戦したり、各地で展示会を開催したり、ゴールデンウイークに陶器まつりを開催して24万人もの客を集めたりしているのだが、起死回生の大きな力にはなっていないようだ。

商社が発達して波佐見の焼き物は全国に流通した

 波佐見焼の特長は、窯元と同じぐらいに問屋(商社)が発達したことだった。窯元で焼き上がるそばから陶磁器を全国に販売できる機能を持っていた。全盛のころは窯元に問屋さんが行列したほどだという。

 奥川陶器?の社長でもあり、長崎県陶磁器卸商業協同組合の理事長でもある奥川保雄さんは、産地問屋の苦悩を語る。

「われわれは窯元から仕入れた商品を東京や大阪の消費地の問屋に卸しているのですが、ここ数年で消費地問屋がバタバタと倒産しまして、大きな被害を受けているんです。波佐見にいては、取引先の経営状態なんか分かるわけがありませんから、注文が来るたびに商品を送っていると、ある日突然、弁護士さんから手紙が来て、○○会社は破産手続きに入りましたから以後の連絡は、しかじかの法律事務所を通すようにと書いてあるんです。せめて納品した品物だけでも返してほしいんですが、実際はお手上げです。

 それと、最近は消費地の問屋は在庫を持ちたがりませんから、極端な話、1個2個という注文が入って来る。私どもの在庫管理が煩雑極まりない状態になるばかりなんです。それでも在庫になったものがどんどん出荷できればいいんですが、1年も2年も動かないというのも多いんです」

 ややもすれば、問屋は窯元から怨嗟のまなざしで見られることも多い。窯元が営々と汗を流して焼き上げた陶磁器を安くしか買ってくれないというのである。しかし、売れればいくらでも高く買うのだろうけれど、危機と隣り合わせであることと、不良在庫を抱える心配もあることから、窯元に愛される問屋になるのはなかなか難しいようである。

 奥川理事長は、まだまだ売り上げは下降線をたどるだろうと予測していた。そして、これからの方向性を次のように示した。

「おそらく2極化していくだろうと思います。100円ショップで販売されているような低価格のものと、こだわりの一点物にです。現在でも、すでに多品種小量生産になっていますが、この傾向はもっと進むでしょう」

 組合はあるものの、問屋が団結して強力な販売戦略を立案したことはない。それぞれの問屋の思惑があって、いつも総論賛成、各論反対となってしまうようだ。これは窯元も同じで、生産者が団結すれば、強力な地場ブランドを確立できたかもしれないが、やはりそれぞれの事情があって、具体的な話には入れず、いつも酒飲み話で終わってしまっているらしい。

ロボットが活躍する大量生産方式

 波佐見町の隣の川棚町にある、聖栄陶器?という大工場を見学することができた。窯元といえば、こぢんまりした工房で、職人さんたちがろくろを回しているイメージしか持っていない人は腰を抜かすだろう。全自動成形機をはじめ、最新鋭の機械が並んでいる。茶碗が自動的に次々に出来上がっていくのである。丸太状の陶土が自動的に輪切りにされて、プレスにかけられるとプシューという音とともに瞬間的に茶碗や皿の形になる。それがそのままベルトコンベヤーで素焼きの窯の中に送り込まれる。マジックを見ているような光景だった。ラインはいくつもあって、それぞれ茶碗や湯呑みや皿が作られていく。絵付けは手描き以外にシールを張る、はんこを押す、印刷するといったやり方がある。面白いのはシリコンのふにゃふにゃを利用して、どんぶりの内側の曲面に印刷しているものまである。窯も単窯ではなく、貨車がつながっているような形のトンネル窯で、この中をベルトコンベヤーに乗せられた茶碗や皿がゆっくり通過していく仕組みになっている。窯には蓋がなく、入り口から出口まで、早いものは4時間で焼成されて出てくる。

 これだけの最新鋭の機械で省力化し、大量生産していても、会社の売り上げは年ごとに落ちているという。働いている人の顔にも、心なしか憂いが漂っているようであった。

 広大な工場で黙々と働く機械群を見ていると、複雑な気持ちに襲われた。人間は肉体労働から解放されようとして機械を発明した。短時間で大量のモノを作り、収益を上げようとして作業を分業化し、工場をシステム化した。その結果、大幅に効率が上がって、売り上げも一気に伸びた。しかし、結果的に価格競争を招き、ひいては経営を圧迫し、ものづくりを窮地に追いやっている。なかには、職を失う人も出た。

 人間は、賢いのか愚かなのか、分からない。

 窯元の取材は、中堅メーカーの?中善の中尾孝行専務取締役が運転手を兼ねて、案内してくれた。

世界を目指す戦略が必要だった

「うちは祖父が始めて、現在は三代目なんですが、これまでは、高級なものが悪ければ安いものが良かったりで、すべて悪いということはなかったんです。売り上げもジグザグの線だったので、2、3年は悪くても持ち直すとタカをくくっていたんですが、ここ数年は階段を滑り下りるように一直線に悪くなってしまった。

 大量生産時代の終焉ということを的確に読み切れなかったんだと思います。何しろ波佐見の食器は長年、デザイン不在で、とにかく花鳥風月、松竹梅を描いていれば売れたんですから。ですから、窯元が作りたいものを作るというよりも、デパートのバイヤーにこんなものを求めていると言われれば、それに応じるようなものばかり作ってきたんです。その情報が曖昧で、消費者の真実の声ではなかったということがよくありました。

 長い歴史があるということは、プラスもある半面、経験が邪魔するということもありますよ。何か新しいことをやろうとしても、あれもやったこれもやったと経験は豊富なのですが、本当に斬新なものを作り出せなくなっている。私は、やはり窯元は、作りたいものを作るというのが原点で、市場は世界を視野に置くことだろうと思います。国内の市場で争っている時代ではないと、つくづく思いますよ。

 これからは、お客さんの注文であれば、1個でも作れる体制が必要だと思うし、商品の価格は窯元が主導して決めるようにしたい。今は問屋から、この価格でなければ買えないと言われれば、コスト割れしても売ってしまうことがありますからね」

 大学を卒業して家業に入って25年目、初めて迎えた剣が峰である。

行政は、観光に力を入れるという

 町の一大産業が衰退すれば、当然ながら、町の財政にも税収不足というかたちで響いてくる。波佐見役場の平野英延さんも、少しずつ深刻さが増してきたという。

「窯業が不振になれば、何らかのかたちで町民に影響しますから、商店街も元気がなくなってきます。家庭の収入が減っていますから、家計のやりくりがつかなくなって、国保や固定資産税などの滞納も目立ってきました。町営住宅の家賃の滞納も出てきていますし、なかには水道料金が滞っている方もおります。それでも、町が暗くならずに、何とかやっていけているのは、陶磁器生産にかかわっている人たちは、かたわら農業をやっている人が多いからです。昔から波佐見町は半農半窯の土地でした。特に生地屋さんは高齢化もあって、いちばん廃業率が高いのですが、大抵、農業をやっていて、年金も入ってきていますから、暮らしは成り立っているんだと思います」

 こういう状況にあって、町に窯業を振興させる特別の手立てがあるわけではない。また、行政が介入する中途半端な振興策は、かえって混乱を招くものになるだろう。一瀬政太町長は、町の将来については交流人口の増大しかないという。

「地場産業の衰退は、経済構造の大きな変化から出てきているものですから、町がどうのこうのできるものではありません。町としては、もちろん窯業に頑張ってもらいたいのですが、しかし、新しく観光を柱にして町を活性化させていこうと考えています。そのために『来なっせ100万人達成委員会』を発足させまして、波佐見の知名度を上げることに取り組んでいます。町への入り込み客数は“世界 火火

火博覧会”が開催された1996年が約65万人でピークだったんですが、町には埋もれている観光資源が、まだまだいっぱいありますから、これらを掘り起こして、目標を達成したいと思っています」

“観光”といっても、今いちばん苦戦しているのは有名観光地である。観光振興も簡単ではなく、これから大変な苦労をしなければいけないだろう。

経済行為の前に、何のために生きているのか考えたい 今回の取材で感じたことは、こういっては取材に協力してくれた方々に大変失礼になるかもしれないが、波佐見焼は“産地の常識は世間の非常識”といわれている、地場産業衰退の構図にぴったり当てはまっているということだ。

「例えば、製品の作り方は産地内の加工機能だけという狭い範囲で完結させている、売先も決まっている。また、雇用形態、就業形態、決済の方法など、長い歴史の中で産地独特の慣習が根強く形成されている場合が少なくない」(『21世紀型地場産業の発展戦略』 関満博/佐藤日出海編・新評論)

 同書では、地場産業は、出来上がった枠組みの中にいれば何とかやってこれたが、海外品の流入などの事態に直面した場合、産地の常識では次なる突破口は見いだしにくいと指摘している。これからの地場産業は独自的な道に踏み出していかなくてはならないが、そのためには「何よりも過去のしがらみを断ち切ろうとする激しいエネルギーが必要とされるのである」(同書)とも言っている。

 考えてみれば、ルイ・ヴィトンやシャネル、エルメスといったブランドを日本人は大好きである。ヨーロッパのブランド企業にとって、日本は大のお得意さんだというではないか。それなのに、「日本の地場産業はこれだけ活躍してきたのに関わらず、世界に誇れる高級ブランドをほとんど作れなかったことが悔やまれる。簡単に中国製に席巻されるようなレベルの製品しか生み出してこなかったのであった」(同書)

 学者は経営者ではないから何とでも言えるようだが、従来とは逆のやり方をしない限り生き残りの具体策を発見できないというのは傾聴に値する。

 ところがである。こういうことはとっくに見通している人物がいた。巻頭で触れた高変差値人間、深澤清さん(61)である。本職は個人で和食器を販売している「株式会社とう器ハウス」の社長だが、氏が頭を下げて営業に回っている姿は、はなはだ想像し難いのである。柔道着でも着せて、町の道場に立たせたほうがぴったりくる風貌だ。

 本誌の今回の波佐見町訪問のきっかけは、深澤さんの「とにかくわが町に来て、現状を見てもらいたい」の一言だった。

 深澤さんは、陶磁器の不振を独特の目で見ていた。「波佐見の陶器には哲学も思想もなかった」と言うのである。“カネ”だけを追い掛け、拝金主義に陥った戦後の経済社会への反省がなければ、地場産業の復活などあり得ないし、未来も切り開けるものではないと断言する。20年にわたって発行してきた個人通信『さざ波便り』から、引用させていただく。

「波佐見焼とは一体なんだと問われたら『自由自在の表現が出来る庶民の器』であるという事ができます。これは、だれも意思表示をしていませんから私が勝手に決定しました。今後これが、永遠に云々されて波佐見焼を代表する言葉になります。これまでに、波佐見焼とは何ですかと問われたら日用食器ですとか、ギフト用食器ですとか、総称して有田焼ですとか云々しておりました。

 それは今日まで波佐見の人々が、波佐見焼とは一体何かと問う必要もなく、更に、そのような論議をする事がタブーだった側面も否めません。また、それの概念を創作して決定するような論議がこの町には中々起き難かったのです。それは、波佐見焼の生い立ちに謂々します」

 文体からも推測できるように、深澤さんは、気骨の人である。斜陽の陶器産業にあって、ただ目先の売り上げを追い掛けるようなことはナンセンスだと言う。陶器に哲学や思想が要ると宣言したのは、おそらく日本で初めてだろう。従来の地場産業の閉塞的思考から脱却しなければならないと気付いて、彼は、大きなテーマを掲げた。

「波佐見焼が斜陽化し崩落し始めて私は、波佐見町民として指をくわえて見ている訳にはまいりません。この困難を何とかして打破する方法を模索しています。その一つの手段方法が、ツーリズム運動であります。ツーリズムで体験参加者を募り波佐見を知っていただく契機にはなりますが、かつての波佐見焼の売り上げには程遠いと云わざるを得ません。このツーリズム運動から一体私は、何を学ぶのかハッキリしておかないと運動体としての活動ですからキツクなるばかりです。この運動の本願は、人間回復運動とようやく捉える事が出来まして波佐見焼をどのようにして売るかが分かり始めてきたのです。

 それは、波佐見焼の概念を確立した事で波佐見焼の物語を自由に創作して日本人に面白く生きる夢や希望を提案する事と思ったしだいです」

 これまでの経済至上主義の延長線にある考えでは、現在の袋小路から抜け出せるものではないと言うのである。

 もし、コンサルタントにお金を払って、波佐見焼再生のシナリオを依頼すれば、それなりの分析をしてくれるだろう。たぶん、商品開発力をつけて、情報収集力を強化し、消費者と密着し、販売網の見直しを行い、輸入品に対抗できる高付加価値のものを作り、異業種と連携し、ITを活用し、行政や地域住民と密接な関係をつくり、意欲ある若手の後継者を育成し…などと書き連ねてくることだろう。深澤さんは、そんなことでは限界があることを知っている。だから、経済の前に人間あり、人間のありようを考えることから始めなければ未来はないと言っているのだ。その運動としてのツーリズムであるから、単なる思い付きのアイデアではないのである。

 深澤さんが提唱して「グリーンクラフトツーリズム研究会」が平成13年に発足した。波佐見町には「日本の棚田100選」にも選ばれた鬼木郷の棚田もあるが、美しい田園で農村体験と、茶碗や湯呑みの作陶体験を通して交流を深めようという試みである。まだまだ始まったばかりだが、この取り組みの背景にあるのが、観光で地元に金を落としてもらうという低次元の発想ではなく、われわれが生きてきた社会の根本をお互いに問い直してみたいという世直し思想であった。

「私は昔から“人間って何だろう”という疑問から離れられることはなかった。初めに儒教を勉強し、後に孟子を読んだ。漢籍を読みあさり、人間学を追究した。伊藤肇に感動して直接本人に面会にも行った。安岡正篤を読み、今は新渡戸稲造の武士道を読んでいるんです。その結果、目先の利益を追い求めてうろうろするのは間違いであること、思想のいかに大切であるかに気付いたんです」

 深澤さんは、平成6年に「風の会」を立ち上げている。

「地域づくりグループの結成ということよりも、自分の学んできたことを話す相手が欲しかったのでつくった会です」と謙遜する。

 やがて、この会から派生して早朝集まって勉強する「朝飯会」が始まった。深澤さんが矢継ぎ早に繰り出す仕掛けに、地元住民は戸惑いながらも、その熱意と強引さに引っ張られているようだ。

 多くの町では、地域づくりの本質を経済行為に直結させている。何らかのかたちで金を稼ぐことを考えるのがまちおこしだと考えている。深澤さんのように人間の精神性を高めることがまちづくりだと言う人は珍しい。

もう一人の、地域づくりキーパーソン

 深澤さんの信念を独善的だと非難する人はいる。人間の精神性で波佐見焼が売れるならば苦労はないよと無視する人もいる。しかし、そんな外野の声にはまったくお構いなしに、わが道を直進する深澤さんには、強力な味方がいた。

 深澤さんの変差値度をよく理解し応援しているのが、日本有数の産地問屋である西海陶器?の社長、児玉盛介さんである。深澤さんの熱情と児玉さんの軽妙洒脱なユーモア感覚がうまく折り合って、波佐見町のまちづくりを明るいものにしているようだ。

 不況は西海陶器だけを避けて通るわけでもなく、大きく売り上げはダウンしているのだが、児玉さんからは焦燥は感じられない。

「私が大学を出て、家業を継いだのが昭和45年です。そのころの売り上げは4億ぐらいだったと思います。それから平成2年までは右肩上がり、もう少しで70億に届くというところまで伸びました。経営の才覚があったというのではなく、誰でもまじめに仕事をしていれば伸びた時代だった。

 窯業が上り坂だった昭和50年代、60年代に市場の変化を予測して、窯元と問屋が一致団結して、次の手を考えておくべきだったのかもしれませんが、作るはしから売れるものだから、先のことなど考えなかった。あのころはスーパーが多店舗化を図っていたころで、次々に新しい店をオープンさせた。当然、食器売場に品物を並べなければいけない。努力しなくても売れたんです。それに、波佐見は立地産業で、天草陶土など優れた原料に恵まれていたから、知恵を絞らなくても優位に立てた。うかうかしている間に、他産地が調合陶土などを研究していて、気付いたときには追い付かれていたというわけです」

 このままでは駄目になると、早くから気付いていた児玉さんは、みんなで新しい動きをつくろうと何度も提案してきたが、具体化しなかった。

しかし、児玉社長自身は、早くから国内市場は飽和になることを見越して、ロサンゼルス、シンガポール、香港に現地法人を設立した。ロサンゼルスの店に買いに来る客は、アメリカ人だけではない、南米のブラジルの客も来るというから、まさに波佐見の陶磁器はインターナショナルなビジネスになっている。

 地方の有力者には、よく名士然としたのけぞりタイプがいるものだが、児玉社長はまったく偉ぶるところがない。若い人の意見にも素直に耳を傾ける。また、どんなに立派な肩書のある人にもぺこぺこしない。別に、力んでそうしているのではなく、健全な市民の平衡感覚の持ち主なのであろう。

 児玉社長によれば、波佐見町の窯業がかなり落ち込んでいるが、それでもなんとかかんとか明るくしていられるのは、景気が良かった時代の蓄積があるからだという。

「波佐見町の経営者たちは健全で、バブルのころもベンツを乗り回したり、不動産に投資したりした人はいなかったと思います。有田に比べても地味で辛抱強い。利益が出たときは、商品を買い増ししてストックを増やしてきたんです。豪遊する人はいなかったと思います。うちのおやじなどは、いまもってホテルは5000円のビジネスホテルで、たったひと晩寝るだけで、なんで1万円も出さなきゃいけないんだという考えなんです。伊豆の川奈ホテルに連れて行ったときは、レストランの値段の高さに驚いて、町の中の食堂に出掛けて行ったほどです」

 児玉さんもご尊父の血を引いてか、暮らしぶりはすこぶる堅実である。

 地元の銀行員は、児玉社長を次のように評していた。

「不況が続いて売り上げが落ちると、経営者は守りに入るものです。守りとは、会社の資産を個人に置き換えることです。最悪、会社がおかしくなっても、個人の生活は安泰という道を選択するものですが、児玉社長はそれはしていません。だから会社にはお金はあっても、個人にはないんです」

 企業は“公”のものだという認識なのだろう。児玉社長は、波佐見町の弱点は世代交代がうまくいっていないことだと指摘する。

「こういう時代では、経営者は下手にジタバタしないほうがいいという考えになりがちです。60歳、70歳の経営者の方たちは、景気が良かったころに世の中に出た自分の息子たちを信用できないんですね。もし、経営を任せて、張り切って何かをやられたら元も子もなくすのではないかと心配なんです。親にそう思われているものだから、息子たちも自信を持てないし、挑戦者魂が育たない」と、歯がゆそうに語るのであった。

 最初、深澤さんから声を掛けていただいたときには、波佐見町民はみんな青白い顔で、フラフラしながら歩いているのかと想像したほどだった。現実は、まるで違った。数字そのものは、なるほど深刻である。1599年、豊臣秀吉の朝鮮出兵の帰還に当たり、朝鮮人の陶工・李祐慶を日本に引き連れてきたのが、波佐見焼の始まりとされているから、400年目にして最大の危機というのも大げさではない。しかし、波佐見町を歩いてみると、数字以上に地域のエネルギー、まちを何とか元気にしようという地元住民のバイタリティーが感じられた。お互いが力を合わせて危機を乗り越えようとする力こそが日本の地方の底力なのだろう。

※この先、不況が続けば、まだまだ波佐見町の出荷額は落ちるだろう。しかし、かつての炭坑のように、窯業という産業がすべてなくなるわけでは決してない。それに、どんなことがあっても日本の家庭でプラスチックや紙の容器だけで食事するようになるとは思わない。賢明な波佐見町民は、何らかの方法で町を元気に復活させることだろう。

 しかし、地場産業の衰退をまったく別の視点から考えた場合、背筋に冷たいものを感じるのもまた確かである。それは、陶磁器の光沢や肌ざわりの感触を大切にする日本人の感性が失われつつあるのではないかということである。陶磁器だけではない、木工も織物も漆器も、われわれの祖先が暮らしの掌の中でいつくしんできた感覚を忘れつつあるのではないか。

感覚の喪失これは失業率の増大とは比べものにならない取り返しのつかない損失である。

 だからこそ、経済行為とは対極にある、日本人の精神性を考え直すことをまちづくりの原点に据えるという発想は、極めて貴重な試みだと思うのである。

証言1川添貞秀さん(波佐見町井石郷 洛司庵 陶芸家)

「波佐見町の窯業はほとんど企業化されているのですが、私のように個人で作陶している人も10人ぐらいいます。私は、自分で作った作品は不特定多数の顔の見えないお客さんには売りたくないんです。作品展や個展を開いたりして、私の作品を分かってくれる人にだけ買ってもらいたいと思っています。大きな収益を望んでいるわけではありませんから、自分の作りたいものを作るというやり方を貫いていくつもりです。ですから、不況の影響はあまり感じません。景気が良くても変わらないかもしれませんが」

証言2真崎善太さん(波佐見町中尾郷 ?一真陶苑代表取締役)

真崎善太・英子さん夫妻「不況になって気付いたんですが、今まで作っていた食器から、“心器”を作ろうと決心しました。本当に感動と癒やしを与えるものを作りたいんです。波佐見の窯元が、企画力もプロデュース力もなくてもやってこれたのは、生産者よりも小売りや問屋の力が大きかったからです。これからは大量生産の時代ではないので、窯元も自ら売る努力をしなければいけないでしょうね。うちでは展示会を開いて、問屋さんたちに自分の工房に来てもらうようにしています。どうやったら、これからの陶器業を発展させていけるのか答えは分からないのですが、解決の道は、毎日こねている陶土の中からしか生まれてこないと思っております」証言3佐藤 実さん(波佐見町 ?佐藤生地 取締役社長)

「うちは忙しいですよ。フル回転です。これからの生地屋は、窯元からの注文をじっと待っているだけではなく、こちらからこういう形のものもできますがと、積極的に提案営業していかなければならないと思っております。陶磁器が不振だと言っても、全部がなくなるわけではありません。知恵と工夫のあるところは生き残るんです。生地屋がいなければ窯元は成り立たないわけですから、私は、この仕事にやりがいを感じています」

証言4山口義哲さん(山口石膏整型)

「これからの陶器は、形が命だと思っております。黙っていても売れていた時代は、陶器全集でも広げて、これとこれと合わせた形を作ってくれ、なんて安直な発想でもよかったと思いますが、これからは本当のセンスが問われるのだと思います。だから私は、最新の流行は何かを勉強するようにしているんです。それは陶器からよりも、むしろ音楽なんかからインスピレーションを得ることが多いんです」

証言5岩永 勉さん(波佐見町商工会長)
   山本修司さん(波佐見町商工会・経営指導所長)

「新しい商品開発をして、生き残りの道を探っています。例えば、?永泉という会社は意欲的で、陶器のテープカッター、ティッシュボックス、スイッチパネルや、発泡スチロールを閉じ込めて最初の温度を保つようにした『クール&ホット碗』という容器も開発しました。しかし開発しても、それを売るための販売ルートがありませんので苦戦はしています。が、こういう取り組みの中からチャンスは生まれてくるのだと信じています」

証言6大本薫二さん(?くらわん館 館長)
    古賀幸教さん(波佐見町観光協会事務局)

 「波佐見町においでになったらぜひ、くらわん館にお寄りいただきたいと思います。観光案内だけでなく、波佐見焼の展示、即売や、陶芸教室も開催しています。波佐見町の観光振興の情報発信の拠点としての機能を充実させていくつもりです。待っているだけではなく、近隣の市町村に出掛けて行って、PRもしています」

証言7福村喜美子さん(長崎県窯業技術センター所長)

「まちづくりには、女性のパワーが欠かせません。私がセンターに赴任したのをいい機会に、女性のまちづくりグループ『つんなむ会』を結成しました。“つんなむ”というのは、みんなで連れ立ってという意味の波佐見弁です。将来のツーリズムを見越して、地元の食材を使って“波佐見焼御膳”などの開発や、イベントのときの裏方を引き受けていますが、将来は活躍の場がもっと広がるだろうと思っています。むしろ、私が強調したいのは、行政職員の教育ですね。仕事をしない職員や民間の足を引っ張ることしかできない職員は、自治法を改正してでも解雇できるようにしなくてはいけないと思っています」
かがり火No95 p4掲載記事

かがり火』支局長便り

「コンパネをかついで歩くのは最高の気分!」
山口貴美代 熊本県芦北町支局長

 1996年、天草芦北フェリー株式会社の撤退にて職をなくす。リストラだったので、すぐ失業保険を受給でき、合間に坂本村、相良村の村議選にて、うぐいす嬢なるものを経験させてもらう。感謝。これといった仕事が見つからないので、人吉職業訓練校にてOAビジネス科を半年間受講、卒業したものの職はなし! 残念というか現実だ! ホームヘルパーは2級の実習にて、私がやるならもっと心にゆとりが持てるようになんないと自信がないのでパス。職安に通い、「土日休みたい」「賃金もソコソコ」で探す。“土木作業員募集”「アッ、コレ、いいみたい」。日曜休みだし、第2と第4土曜は休み。土木作業員なら、平日もきっと自由になるかもしれない。「3K」だと言われてるから、賃金もいいじゃん(実はこれは、確認不足で以後の教訓)。

 それに、リストラされて、仕事なくすと、手に職のない私には何もないと思った。自己都合で辞めた時には、そんなこと全く感じなかったけれど。そしてもう一つ、これからの時代どうなるかわかんない、まず、何にでも対応できるパワーが欲しい。肉体労働いいじゃない!! きっと手足も器用になって、なんでもできるようになるかもしれない。一石三鳥だと勝手に思い、職安の係の方は製造のほうがいいのではないかとアドバイスしてくれたが、面接を受けた。「ウチは、明日からでもいい」と言われるが、それじゃ、こっちが困るということで、1998年4月13日(月)より、土木作業員としての生活が始まるのである。

 初日は雨。おばちゃんたちと、コンパネ(コンクリートを流し込んで固める枠板)のそうじ、コテで、コンクリートのこびりついたのをこすって落としてゆく! そしてコンパネをかついで運ぶ!! ワァー、みんなかついで所定の位置へ、それが、私は重くてかつげない。手伝ってもらい、一日を終える。コンクリートの粉で、顔はおしろい、おまけに鼻の穴は真っ白で痛い。指も痛い。指はずっと1年間くらい握力がつくまで、毎晩痛かった。

 次の日からは、母校の高校の前の道路拡張にともない、防風林移植のための枝切り。高校時代を思い出しつつ、数日間、ホコリ生活。

 初めて、スコップを握ったのは、林道工事の土端打ち、スコップだけでも重いのに、ドロがくっつき、ますます重くて、この日は初めて、続けられるか不安になってしまった。けれど、よく観察していると、私のスコップの持ち方は人と違っていたのだ。小学校で習ったテコの原理が、全く身についていないのである。今までの職場では、ある程度マニュアルがあって、それをいろいろ教えてくれていたけれど、この世界では、こんなことできて当たり前で、いろんなこと聞かないと教えないし、教えてもらっても、すぐできるものでもない。そして、日々の積み重ね、まわりの方々には内心あきれられながらも、ホントよくしてもらって、見よう見まねでなんとか続け、1年過ぎるころには、コンパネをかつげるようになった。とってもうれしかった! 今でも、コンパネかついで歩いている気分は最高だ!!

 でも、大事件もあった。重い荷物を持ったまま、脚立から落ち、前歯1本、きれいにとれてしまったこと。1回目は大丈夫で、2回目、大丈夫かなと不安もあったのだが、“後のまつり”。それにしても、これだけで済んでよかったと思う。そして、いろんなことを勉強した。ほかにもいろんなことがあって、まだまだ仕事でピンとこないことも多々ある私なのですが、この4月で丸5年、まわりからは、よくもった! 3日も続かないと思っていたと言われつつ、40前でも若いと言われ、まわりの方々からかわいがってもらっている。他の職場だったら考えられない幸せ者!! 先ゆきは、今期までは仕事がありますが、その後は未定です。でも、きっとなんでもやって生活しとてゆけると思っています。

 地域づくり活動は、地元の芦北町の他の多くの方々の地道な動きをうれしく思っています。私の今は、“川辺川ダム建設反対”が、芦北町のシンボルである“うたせ船”を守るうえで大切なことだと思い、同じ思いの多くの仲間と動いています。いちばんは、地元の不知火海で取れる海の幸、いつまでも食べたいだけなのだけれどネ……。いつも、そう。私は自分が楽しめることしかやっていない。それがたまたま、言葉で“地域づくり”とか呼ばれることであったりして、心の片隅で申し訳なく思ってます。

 そして、大切に思っていることは、“やまんたろかわんたろの会”の合(愛)言葉である「山川海はひとつにつながっているんだね! 自然が元気だとみんなも元気だよ!」 

 これは人と人もつながっていて、すべてのことがいろいろあるけど、うまくいってほしいと、願ってます。

 失敗しても、過程が大切で、そこから、また何か生まれて、自然が元気だと、ふと、元気になれるのは、私だけじゃないはず。BOOKGUIDE

『森林療法序説 森の癒しことはじめ』

「森林活動が知的障害者および健常者に与える心理的効果」を主テーマに研究を重ねてきた著者(東海女子大学人間関係学部専任講師)が、林学・福祉・医学を統合した学際的研究による森林療法の確立に向けてまとめた本。

 国内の福祉施設での事例のほか、人間の自然治癒力を引き出すドイツの「クナイプ療法」や「森の幼稚園」、スウェーデンの森林療育、森林散策カウンセリングの効用等、海外の事例を交えて分かりやすく解説している。

本体923円+税。

■上原 巖著/(社)全国林業改良普及協会・発行

 かがり火No93 p41掲載記事

水俣市を“環境都市”として再生させた
吉井正澄前市長の取り組みと、見事な引き際

 水俣病患者の発症が公式に確認されたのは1953年である。そして水俣病問題が政治的な解決を見たのが1995年。この間、水俣病の被害者が味わった苦悩は、世界に例がない。この苦悩を解消したのが吉井正澄前水俣市長である。吉井さんを取材してあらためて感じるのは、水俣病公害で浮き彫りにされたさまざまな問題は、40年を経た現在にも残されているということだ。環境を考えるうえで、水俣病問題は何よりの教訓となる。

1931年 熊本県生まれ
1950年 県立芦北農林高校を卒業
      家業の農林業に従事
1975年 水俣市議会議員に初当選
1983〜85年 水俣市議会議長
1991〜93年 自民党水俣市支部長
1994年 水俣市長に初当選
1998年 水俣市長に再選
2002年2月 任期満了に伴い市長を退任
■水俣病問題、政治解決までのあゆみ
1953年 水俣病患者発症公式確認。
1956年 チッソ付属病院長が水俣保健所に届出、水俣病公式確認。
1959年 熊本大学研究班「水俣病の原因は有機水銀が有力」と公式発表。
1968年 政府「原因はチッソの廃液」と断定。水俣病公害認定。
1972年 水俣市、「公害課」を設置。
1973年 一次訴訟判決で患者全面勝利。東京交渉始まる。
199塚年 東京地裁、原告被告双方に和解勧告。
    国、「和解勧告に応じない」と発表。
1992年 水俣市、24年ぶりに「水俣病犠牲者慰霊式」を開催。
1994年 水俣病犠牲者慰霊式で、吉井市長が行政として初めて謝罪。
    吉井市長、村山首相と初会談。「チッソ支援と水俣病問題の政治解決」  を陳情。
1995年 「水俣病の被害拡大は国にも責任」と、村山首相が遺憾の意を表明。水俣病解決策を閣議了承。首相談話で遺憾の意を表明。いわゆる政治解決。

市政の原点は、世界から尊敬される環境都市づくり

 1992年、吉井さんが水俣市議会議員のとき、ブラジルで開催された環境サミットに参加した。世界都市フォーラムで環境に対する取り組みを議論するためである。

 会場の一角には水俣病コーナーが設けられ、多くの人が水俣市に同情と関心を寄せてくれたが、会議の雰囲気はまったく違ったものだったという。

「日本は森林を荒廃させている。有限の資源である石油を湯水のごとく使う。そのうえ公害企業の商品も輸出している。日本は世界最大の地球破壊国だ、という意見が続くわけです」

 ブラジルの新聞も、「地球環境を破壊してもうけた金でODAの支援をしている。そんな金をもらっても釈然としない。ゼロ成長でも発展できる経済社会システムを、率先してつくることが日本に与えられた使命ではないか」と書いた。

「それを読んで、水俣市が進むべき方向は、世界から尊敬される環境都市をつくること。苦しんでいる被害者を一刻も早く救済すること。そして、崩れてしまった市民の心のつながりを取り戻すこと。そのうえで水俣病の悲惨さを発信しないと説得力がない。そう感じたんですよ。それが私の市政の原点です」

 と吉井さんは言う。

水俣病被害者に行政として初めて謝罪
 1994年1月、吉井さんは水俣市長に初当選した。
 水俣病患者の発症が公式に確認されてから41年目である。そこにはイデオロギーが入り込み、政治が深く関与していた。被害者団体は一本にまとまらず、主義・主張の違い、利害関係が複雑に絡み合って分裂に分裂を重ね、水俣市だけで17の被害者団体があったという。また高裁を別にして、裁判の数は20を超えた。被害者はチッソを相手に、あるいは国を相手に訴訟を起こし、被害者同士の名誉棄損訴訟まで起こり、水俣市は混沌とした状態だった。

吉井さんは市長になった直後から、被害者と真っ正面から向き合った。

公害には原因者負担の原則がある。公害を起こした企業あるいは国は、被害者に対する補償や環境の復元などを行わなくてはならないという決まりである。ところが、その原則が水俣病問題では適用されなかった。チッソが企業としての実力以上の大きな公害を起こしてしまったため、被害者を救済できなかったからだ。

「それで、どうしたかというと、国がチッソを支援をして、補償金を払わせるという制度をとったわけです。そこで大きな問題が出てきた。

 公害というのは、まず被害者をどう救済するかが第一です。ところが、国は被害者を救済する前に加害者を救済して、大きな矛盾を抱え込んでしまった。加害者を救済するために被害者の認定条件を厳しくしたとか、そういう批判が起きて、医学界その他の分野を巻き込んだ大論争になったわけです」

 加えて、当時の水俣市はチッソの企業城下町だった。市の水俣病対策はチッソ寄りだった。市民である被害者寄りではなかった。奇病対策委員会の設置など可能なことは行ってきたが、十分な対策がとれなかったことは否めない。そのことを被害者に対して謝罪せず、何とか言いつくろって正当化してきた。これに対して被害者サイドから反発が起こる。そうした対立関係が40年間以上も続いてきたのだ。

「私は、対立を解決するには、まず自分が変わらにゃいけん。自分が変わって、相手に変わってもらうと考えたわけです」

 吉井さんは、水俣病慰霊式の中で被害者に対して謝罪することを決め、その原稿を県や当時の環境庁に送った。真っ赤に修正が入って戻ってくる。すべての被害者団体にも原稿を持っていったが、これも真っ赤になって戻ってきた。吉井さんは、それらをすり合わせて最終的な慰霊式の式辞にした。

こうした努力は報いられることになる。それまで水俣病慰霊式には、県や国の関係者は出席しても、遺族や被害者団体は出席しなかった。主人公のいない慰霊式だったが、その主人公が出席することを承諾してくれたのだ。

市長に就任して間もない1994年5月、吉井さんは水俣病犠牲者慰霊式で、行政として初めて、被害者に謝罪した。

「それが水俣病問題解決の原点になったわけです」

年老いていく水俣病患者が生きているうちに政治解決を

 1994年は、水俣病問題にとって大きな節目の年だったといえる。この年6月、社会党(当時)の村山富市委員長が総理大臣になり、水俣病問題は大きく解決へと歩み出すからだ。

 それまで自民党がこうすると言うと、社会党は反対した。地元出身の代議士も二つに分かれ、一方は患者サイドに立ち、一方はチッソサイドに立った。そういうぶつかり合いが続いていたなかで、自民・社会・さきがけの3党が政府与党をつくり、村山さんが首相になった。話し合う状況が生まれたといえる。

 同年8月、吉井さんは村山首相と会談を持ち、チッソ支援と水俣病問題の政治的解決を陳情した。以後、村山首相と数回会い、1995年7月、「水俣病の被害拡大は国にも責任がある」と首相として初めて遺憾の意を表明。同12月、閣議で水俣病解決案を了承し、ここに水俣病は政治解決することになるのだった。

「ものごとは機が熟さなければ成就しません。やはりタイミングというか、チャンスというか。そのときに市長を拝命したのは、私は、天命だと思うとります」

 との吉井さんの言葉に、その謙虚で実直な人柄がよく表れている。

 だが、40年間もモメ続けた事件である。みんなが納得できるような理路整然とした解決策など、あるはずもない。この政治解決を、支援団体などは敗北と見なし、譲歩した国もまた同様な反応を示したという。

しかし、被害者は年齢を重ねていく。何とかしたいという思いが強くあった。市民もまた、このままでは水俣はつぶれるという思いがあり、そういう思いが政治解決の時点に集中したといってよいだろう。

「まずは、生きているうちに救済をというのが、年老いてしまった被害者の願いです。心の安定が先です。心の安定した社会をつくるには、我慢が必要だということを、私は話したんです。いろいろありましたが、被害者のほとんどは、補償は少なかったけれど納得してくれました。穏やかに休むことができるというのが一般的な感想だったですね。まだ残っている問題もあります。しかしそれはこれから先の年月をかけて解決しなければ駄目ですよ」

 吉井さんは、そう当時を振り返る。

水俣は日本の経済成長、豊かさ追求の犠牲になった

 水俣病の被害が拡大した時期は、日本の経済成長の時期と重なり合う。

「水俣病というのは、まさに日本の経済効率社会のヒズミが起こしたようなもんです。それに対する反省は必要だし、それについては今でも叫んでおるわけですけれども」

 水俣病解決のなかで最も欠けていたのは、国の危機管理体制ではなかったかと吉井さんは言う。非常事態が起きたとき、超法規的に解決しようとするのが危機管理だ。水俣湾で取れた魚に被害が出たとき、それはチッソの工場廃液が原因であることは否定できなかった。それなのに水俣湾での漁獲禁止は出されなかった。禁止する法律がなかったというのが、その理由である。

水俣病は、アセトアルデヒドの製造過程で発生した水銀化合物がチッソの工場廃液の中に含まれて、水俣湾に流出したことを原因とする大規模な環境汚染、健康被害である。だが当時の通産省は、工場廃液の規制はしなかった。なぜか?

戦後、日本が豊かになった理由の一つに塩化ビニールの開発がある。その塩化ビニール生産のトップメーカーであったのがチッソである。

塩化ビニールの原料はアセトアルデヒドやオクタノールだ。アセトアルデヒドからオクタノールを合成し、さらにオクタノールから塩化ビニールの可塑剤を合成する。そのオクタノールの全国生産の95%をチッソ水俣工場で製造した。

水俣工場が操業を停止すると、日本のさまざまな工場が大打撃を受ける。そのことで日本の経済成長が滞る恐れがあったと、後の裁判の中で通産官僚が証言している。

「水俣は日本の経済成長、豊かさ追求の犠牲になったんです。日本一の化学工場があったことが水俣の悲劇につながった。人命、人権、環境よりも、経済成長のほうが大切だという考え方だったんですね」

 当時、日本の国民は水俣病被害者を支援しなかった。それどころか、水俣出身ということだけで結婚は破談になり、就職試験に落とされた例もある。「水俣病がうつるから、あっちへ行け」と言われた水俣の修学旅行生は少なくない。偏見と無関心。国民もまた、経済的豊かさのほうへ目を向けていたといえるのである。

「国とは一体何なのか。困っている国民を救うのが国の役目ですよね。今もそう思うわけです。国は強いものには支援をする。でも、弱いものは切り捨てる。

 道路にしても、新幹線にしても、金のない地方に費用負担しなさいと言う。そして裕福な自治体には国が金を出す。国は何のためにあるのか」

吉井さんは、水俣病問題を通して、そんな思いにとらわれたという。

マイナスの個性から環境都市づくりへ

 吉井さんは、水俣病問題の解決を大きく前進させただけでなく、水俣の新しい町づくりにも着手している。

 1991年、水俣で「産業と環境及び健康に関する国際会議」が開催された。このとき吉井さんは、水俣は工業都市、観光都市を目指していたが、これからやらなければならないのは、環境、健康、福祉を大切にする町だと思ったそうだ。

 94年に市長になって、総合計画を立案した。その理念は3年前の思いを反映している。「水俣市民は水俣病公害の経験と教訓を社会に発信し、再びそのような愚かな悲劇が世界のどこにも起きないように警鐘を鳴らそう。そして水俣市民は環境を大切にし、地球環境を守るという生活信条を確立して、環境と共生のできる産業活動、それから市民のライフスタイルを創造していこう」……これが総合計画の理念である。

 地域座談会をやり、市民の意見を聞き、市民から公募した委員会と市職員のワーキンググループが一緒になって、住民参加の総合計画をつくった。

「町づくりというのは、国が打ち出す施策を持ってきて、寄せ集めればいいというものではないわけです。やはり個性を大切にしないと駄目だと思うんですよ」

 その個性が水俣にあるのか。地方都市は“緑、きれいな空気、温泉”などをキーワードにすることが少なくない。だが、そういうものはどこにでもある。個性とは、他をもって代え難い価値だ。水俣で忘れてならないのは水俣病である。他に例がない。これを生かさない手はないと、吉井さんは考えたという。

「ただ、すごいマイナスの個性です。すごいマイナスだからこそ、これを変えればすごいプラスの個性になる。水俣の“環境都市づくり”は、そこからきているわけです」

 行政を取り巻く環境もマイナス要素ばかりだった。市民の心の内面社会は崩れていた。市の財政はめちゃくちゃだった。地域経済は目を覆うばかり。水俣の新しい町づくりは、マイナス材料のなかでスタートする。

 町の活性化といえば、ほとんどの自治体が企業誘致を考えてきた。大きな企業を持ってきて人口を増やし、町の繁栄を図ろうというのが定番だった。だが、これが実現した町は少ない。実現しないどころか、企業は町から逃げて行く時代である。国からの補助金を当てにするのではなく、町の繁栄は自治体自らがつくりなさいという時代になった。

「自治体が新しい繁栄をつくり出すには、その基礎になる知的なものが必要です。企業の誘致より、まず人の誘致が先にこなければなりません」

 水俣は、早くから取り組んだゴミの分別収集でも知られているが、水俣のいいところは知的集積が高いことだと吉井さんは言う。水俣病という大きな事件で、日本はおろか世界中から、あらゆる分野の知能が水俣に集まった。その人たちは、多かれ少なかれ、知的資産を水俣に残した。そのことによって市民の意識も高まった。

「その集積が、水俣の財産です」

 産学の連携の拠点にし、知能を集積するために、吉井さんは水俣環境テクノセンターをつくった。当初、そんな小さな研究所をつくってどうするのか。環境で飯が食えるのかといった反対もあったが、今では熊本大学など5大学から学者が集まり、環境ホルモンやバイオマスの研究などを行っている。

「国は環境に対する金は持っています。環境ホルモンの研究で8000万円ぐらいでしょうか。そういう研究のための金を国から持ってきて、テクノセンターが管理法人になる。熊本大学などの専門の学者にチームを組んでいただいて、研究してもらうわけです」

 そうした環境への取り組みが評価され、水俣はエコタウンに指定された。エコタウンに指定されたことで、水俣の最先端のリサイクル産業には国からの補助金が出る。

 ただ、国が指向するのは大牟田のゴミ発電所などのような大きなプロジェクトだが、巨大なゴミのリサイクル施設を造り、そこに九州のすべてのゴミを運ぶのでは環境に負荷を与えかねない。ゴミは発生したところでリサイクルするのが理想的だ。水俣の目指すリサイクル化は規模が小さい。

「ユースリサイクルというのは昔からあって、1升瓶やビール瓶などは循環をしておったわけですが、焼酎などは化粧瓶のようなものが増えている。それもリサイクルの対象にして、小さい循環を醸造メーカーごとに行うのが有効じゃないですか。そういう議論を国とやって、認めてもらったんです」

 だが、リサイクル産業を市場経済の中で成り立たせることは難しい。例えば、水俣でやっている家電リサイクルである。今、テレビは賃金が安い外国で製造し、これが日本に入ってくる。そのテレビを日本の高い賃金でリサイクルする。リサイクル自体が高くつく。海外からの安い製品には太刀打ちできない。

 ただ、国際法で有害物質を含んだ廃棄物は海外に持ち出すことは禁じられている。リサイクルを賃金の安い外国でやろうとしてもできない。今、企業は外国に逃げているが、リサイクル企業は外国に逃げることはできないのだ。

「だから水俣でやるんです」

 水俣のリサイクル企業は、厳しい環境保全協定をしなければ工場を建てられない。そして工場を建てたらISO14001を取得する。そして工場を公開する。一方、企業にとっても“環境”の看板は宣伝になる。

「水俣は環境学習基地を目指しておりますから、その一部を企業に受け持ってもらう。公害の研修で人命、人権、環境の大切さを学ぶことができる。ゴミの分別を見ることで環境保全のやり方、住民がどうかかわるかを勉強できる。それから環境テクノセンターで、環境ホルモンとか21世紀の公害を勉強できる。そして最後にリサイクル産業を見ることで、物の循環を見ることができるわけです」

 水俣に一日いれば、循環型社会というのは、どういうものかを知ることができる。世界に類のない環境都市になるといえよう。

「ゴミの分別化では、市民の生活は豊かになりません。その先で、リサイクル産業化することで市民にリターンがある。それをつくり上げたかったわけです。

 豊かさというのは大切ですし、物質文明を否定するのではありません。ただ、その豊かさを求めるあまり、地球の持っている水の循環、生命の循環などを壊してはならない。そこから生まれる浄化力、回復力、復元力、これはすごい力を持っていますから。

 そして心の豊かな社会、安心・安全な社会、環境と共生できる産業から生まれる物質的な豊かさ。このバランスをとろうじゃないか。それを小さい水俣というコミュニティーで実現していこうじゃないか、というのが水俣の根底にあるんです」

 水俣には1年間で5社のリサイクル工場ができた。企業としては小さいが、これからも新しいリサイクル工場が建設されるという。

体力、構想力が活発なうちに次の人へバトンタッチを

 吉井さんは歴代市長ができなかった水俣病問題の解決を大きく前進させた。水俣の歴史に残る市長といっていいが、吉井さんは2002年2月、任期満了に伴って、実にあっさりと市長を辞めてしまった。

「市長に就任したとき、2期70歳で辞めると決めていました。これを宣言すると求心力がなくなりますので、助役だけに、水俣病問題を解決して辞めたいと告げていたんです」

 辞任後、たくさんの人から「今、水俣では改革が進んでいる。市長としてやるべき仕事がいっぱいあるのではないか」という説得があったそうだ。

「しかし3期やっても、4期やっても一緒じゃけん。むしろ3期やれば、執着が増えるだけです。大きなプロジェクトになると10年、20年かかります。そうすると、どんどん仕事が増えて辞められない。体力とか、構想力とか、それらが衰えてから辞めるのではなくて、活発にやれるときに次の人にバトンタッチしなければ」

 日本の現状を見るとき、産業界にも、行政の世界にも、権力の座に居座ろうとする人が多い。それだけに、吉井さんの見事な引き際も、またわれわれの心に深く残るのである。
かがり火No92 p4掲載記事

ガン患者に勇気と希望を与えている
元NHKディレクター 川竹文夫さんの信念
●NPO ガンの患者学研究所/
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 http://www.emile.co.jp/kanjagaku/参考/『幸せはガンがくれた』(川竹文夫著・創元社刊)

  昨年末、藤井しのぶさんという本誌の読者の方が編集部に訪ねて来られて、「自分たちの活動を取材してほしい」と依頼された。そして、会の主宰者の川竹文夫さんに会ってほしいとおっしゃる。名刺には「NPO ガンの患者学研究所」とあった。ガンから生還した人たちの体験を、現在、ガンと闘っている人たちに伝えて、勇気と希望を与えている団体のようである。西洋医学ではなく、玄米菜食などの民間療法や、心の力によって自然治癒力を高めてガンを克服した人たちの事例を豊富に持っているらしい。『いのちの田圃』という月刊誌も発行していた。

 本誌はちょっと悩んだ。新聞や週刊誌で“末期ガンが消えた”というような広告を見かけるが、大抵、健康食品などの販売を目的にしているようだ。人の弱みに付け込んだビジネスか、怪しげな宗教だったら困る。

 やや重い気分で横浜市青葉台の事務所にお邪魔したが、会の主宰者・川竹文夫さんに会って話を伺ううちに、本誌の危惧は大変な誤解であったことに気付いた。川竹さんはまじめで、探求心の旺盛な素晴らしい人物だった。

  “自然退縮”とは何か

 川竹さんはNHKで美術と歴史関連の番組を担当するディレクターだった。「歴史への招待」「日曜美術館」「NHKスペシャル」などを制作してきた。川竹さんが発病したのは、44歳のときだった。

「NHKでは40歳を過ぎると格安で人間ドックを受けられる制度があるんです。ある日、机の上にその案内パンフが載っていたので、気軽な気持ちで受けてみたのですが、そこのクリニックで腎臓ガンが発見されたんです」

 自覚症状のまったくなかった川竹さんにとっては、青天の霹靂だった。そのときの心境を著書『幸せはガンがくれた』(創元社)の中で次のように述べている。

「一九九〇年五月、私は、腎臓ガンの手術を受けました。早期のガンであったにもかかわらず、不安と恐怖、そして自らの運命を自分でコントロールできないという、やりきれない無力感に苛さいなまれました。最も弱いガン患者の一人であったと思います」

 川竹さんは幸い早期発見で手術後1カ月半ぐらいで職場に復帰した。しかし、再発の怯おびえから逃れることはできない。医師に尋ねても「ガンはなぜ発生するかもよく分からない病気なんですよ、再発するかどうか聞かれても分かりません」とニベもなかった。

 人間ドックのクリニック、手術を受けた病院、骨への転移を検査するために訪れた病院など、いくつかの病院で何人かの医師と向かい合ったが、川竹さんを納得させてくれる答えはなかった。そんな自分を癒やそうと手探りするうち、いつしか川竹さんの書棚はガンの本で埋まっていた。

 そして、ある本の一節に川竹さんの目がくぎ付けになった。九州大学名誉教授の池見酉次郎氏が作家の遠藤周作氏の質問に答えている個所だった。

「……私どもは十数年前、ガンの自然退縮の研究を始めました。末期癌になって医者から完全に匙を投げられた患者さんが、ときとして自然に治ってしまうんですね。そのころは一〇万人か二〇万人に一人と言われていたんですが、近ごろは五〇〇人か一〇〇〇人に一人もあるんです……」(『心の海を探る』プレジデント社)

 このころの川竹さんは〈ガン・イコール・死〉というマイナスの情報ばかり十分に持っていたから、この一文の意味するところが理解できなかったという。しかし、これが川竹さんのジャーナリスト精神を刺激した。“自然退縮”とは何かを徹底的に調べてみようと思い立ったのである。そして、調べれば調べるほど“自然退縮”は奇跡的というのではなく、かなりの確率で発生しているのが分かった。これはテレビ番組を作る価値ありと考えた。そのときから、膨大な資料を収集し、文献を読み、あらゆるつてを頼って自然退縮でガンから生還した人たちを訪ね歩き始めた。なぜ、どうして回復したのか、どんな意志の力を発揮したのかを取材して回ることとなった。

 初めは、自然退縮の資料や報告書のたぐいが少なく取材が進まなかった。それは医師たちの誤解と偏見が大きな壁となっていたこともある。誤解とは、ガンが小さくなったり、ある場合にはなくなってしまうなどということがあるはずがないという、かたくなな思い込みであった。偏見とは、もし身近にガンが自然に縮小あるいは消失してしまった例に遭遇したときは、それはもともとガンではなく誤診だったと無理に思い込んでしまうことであった。このような偏見や誤解が生じる原因は、あまりにも有名な次の言葉にある。

〈ガンは、細胞の突然変異によって生じ、宿主(患者)を死に至らしめるまで、無限の増殖を続ける〉

 これは19世紀の著名な細胞病理学者ウィルヒョウがガンを定義付けた言葉である。この悪魔的イメージは、今日まで医師たちのガンのイメージを支配し、自然退縮に対する誤解と偏見を育ててきた。

 ガンはひとりでに小さくなったりはしない。ましてや治ったりしない。放っておけば、必ずや患者を死に追いやる。となれば、なすべきことは決まっている。発見次第、外科手術で切り取る。放射線で焼く。抗ガン剤で毒殺する。いわゆるガンの三大療法しかないと考えている。しかし、これでも思ったほどの成果を上げ得ない。こうした日常も、医師たちにガンの自然退縮を心情的に認めにくくしてきた。

 しかし一方、長い経験を持つ外科医は大抵、2、3例はそれと分かる症例を経験している現実があることも事実である。結局、そうした医師たちの多くは戸惑いを感じつつ次のように言ってきた。

「世に自然退縮と言われているものの多くは誤診であろう。また、本当にあったとしても、極めてまれである」

 つまり、自然退縮の存在を完全に否定することはどうやらできない。しかし、認めるにしてもそれは極めてまれなことであり、そのような例外的なケースを研究することには、あまり意味がないというわけである。

 川竹さんは、医学に限らず、科学の歴史において、例外的ともいえるまれなケースの研究から、歴史を変えるほどの大きな普遍的な法則が発見されたことが、しばしばあったではないかと言う。

 取材が進むうちに、自然退縮によってガンを治した人たちと出会うようになった。やがて、川竹さんは、「ガンは治る。進行ガンはもちろん、医師から見放された末期ガンも、やはり治る」という確信を持つようになった。

 ガンから生還した人の取材は国内だけではなく海外まで及んだ。そして、手術や放射線、抗ガン剤などに頼らない、さまざまな新しい治療方法のあることも知った。

 そして、1993年2月。その感動を多くの人と共有するため、川竹さんはNHK教育テレビで「人間はなぜ治るのか」を放映した。海外まで出掛けて、ガンを克服した患者の声、現代医療に疑問を持つ医師たちの意見、自然退縮の事例、代替療法の数々を用意周到に取材して作り上げた番組だった。

「生還者たちの素晴らしい肉声のおかげでしょう、反響はすさまじいとも言えるものでした。大半は、ガンが治るということを初めて知り、あるいは、薄々感じていたそのことを確認して、何よりも大きな希望を得たというものでした」

  ファイティングスピリット

 世界的な権威を持つイギリスの科学雑誌『ランセット』に発表(1985年)された、ロンドン王立大学病院の二人の精神科医の論文がある。

 早期ガンの患者57人を四つのグループに分け、それぞれのガン手術後10年の生存率を発表したものである。グループ分けの基準は、ガン告知に対して患者本人が、その後どのように心理的反応をとり続けたかということである。

 まず、最も生存率が低いのは、ガンになったという事実に対して、無力感に陥り、絶望してしまった人たち。その生存率はわずかに20%であった。その次に生存率が低いのは、自分がガンになったという事実を仕方なく受け入れてはいるが、何ら積極的な態度をとらない人たち。第二位の生存率を示したのは、どのような説明を受けようと、また事実がどうであれ、あくまでも自分ではガンでないと思い込んでいる人たちだった。そして、注目すべきは70%という最も高い生存率を示した人たちは、告知にもめげず、ガンと徹底的に闘うというファイティングスピリットを持ち続けた人たちだった。絶望するか、あくまでも闘争心を燃やすのか、ただそうした心の持ちようだけで、生存率に三倍もの開きが出るのだ。このデータは、心が免疫機能に及ぼす、絶大な力を物語っている。

 精神神経免疫学という医学の最新分野がある。心が肉体に及ぼす力に注目する多くの研究者が、風邪からエイズに至るまで、あらゆる病気の発病と治癒に、心の持ち方が決定的な影響力を持っていることを膨大なデータによって実証してきた。

 喜び、勇気、希望、感謝、感動。こうしたプラスの感情は免疫機能を高め、あらゆる病気の治癒を早める。逆に、不安、悲しみ、絶望、怒りなどのマイナスの感情は、免疫機能を低下させ、病気を一層治りにくくするというのだ。

 川竹さんの出会った生還者の記録を読むと、まさに、精神神経免疫学の主張するとおり、自ら治ろうとする意志の強い人ほど、驚くべき回復を示していることがよく分かる。反対に、絶望感や敗北感を持つ人が生き抜くことは難しい。心のありようは、このように、自然治癒力に多大な影響を与えているのである。

 しかし、この番組には、医師たちの反発も多かった。科学的根拠のないものに、過大な期待を抱かせるのは、かえって患者を迷わせるというのである。

 何しろ、今から十年も前のこと。医師たちの大半は、精神神経免疫学という言葉すら知らなかったのだ。

 川竹さんはガン治療に関して、現代医学と多くの医師に、はなはだ懐疑的である。というのは、手術や放射線、抗ガン剤などは対症療法で、目前のガン細胞を取り除くだけで、本当の治療にはなっていないと思うからだった。

「ニキビをつぶすようなもので、ここをつぶせばまたあちらと出てくる危険性はつきまとうんです。もっと根本から治さなければいけないんです」といって描いてくれたのが、左の図である。

 ガンを氷山に例えれば、いちばん大きな原因となっているのが、心である。心がゆがんでいればストレスがたまったり、生きがいの喪失を感じてガン発生の原因をつくる。その上に乗っているのが食事で、肉食や欧米型の食事が問題である。その上が不規則な生活や、働き過ぎ、過労などのライフスタイル、この三つが原因だから、結果としてガンになった場合はこの三つを根本から変えないと治らないという。

 つまり、ガンを克服した人たちは何も特別な治療をした人たちではない。海面下に隠れていたこのガンの原因を徹底的に取り除いた人たちだったのである。

  ストレスが原因だった

 川竹さんは、手術、放射線、抗ガン剤以外の治療例を数多く紹介しているが、西洋医学を否定しているのではない。前出の著書で言う。

「断っておくが、私は、手術や、ほかの西洋医学的な治療の拒否を勧めているのでは、決してない。あなたが医師を全面的に信頼し、また勉強の結果、治療も納得のいくものであるなら、それはきっと最大の効果を上げるだろう。したがって、私の言いたいことは一つ。たとえどんなに希望が失われて見えようと、自らの力で何かをなそうとするなら、必ず道はあるということである。医師は権威である。何の? 言うまでもなくガンの。しかし、ガンは、多くの場合、直径数センチにすぎない。つまり、医師はたかだか、その直径数センチの塊の権威であるにしかすぎない。あなたの替わりに生きることもできなければ、あなたの替わりに死んでくれるわけでもない。その医師に、すべてを委ねてしまうのは、どのように考えても間違っていると思う。なるほどあなたは、そして私は、ガンに関しては素人かもしれない。しかし、私たちは一人ひとり、自分の人生の専門家である。生きることの専門家である。

 権威に頼るな。人任せにするな。そして……自らの力を頼め」

 このような決意を宣言できるようになったのは、川竹さん自身がガンを通して人間的な強さを身につけたからに違いない。

 川竹さんは定年を待たずNHKを退職した。制作の現場にいれば相変わらずストレスがたまる一方だった。つまり、発ガン環境といってもよかった。現に多くの先輩や同僚もガンになっていた。

 NHKを辞めた当初は、ライターとして一時しのいだものの、やはり自分のライフワークはガンの生還者の声を多くの患者に届け、ガンと正面きって対峙することの重要性をアピールしていくことだと決心した。

 川竹さん自身は、自分を「決して強い人間ではない」と言う。しかし、なぜ自分がガンになったかを冷静に分析して、著書で過去を次のように振り返っている。

「たとえば私の場合、ガンになったおかげで、自分に課していた高すぎる要求から、自分を解放してやることができた。また、自分が真に望まない限り、他人の期待には応える必要がないということも学んだ。

 どういうことか、若干の説明を加えてみよう。

 子供の頃から私には、学業の面で親兄弟に対する抜きがたい劣等感があった。その上、高校時代(いわゆる“不良”であった)から、現在のテレビディレクターという職業に就くまでの、十数年間の逼ひっ塞そくしたような……いわば一向にぱっとしない自分が許せなかった。NHKにも、ほかの職業を転々とした末の途中入社で、初めは臨時要員。焦りからくるストレスがもとで、ひどい胃腸障害に絶えず悩まされてもいた。そして、そういう自分を嫌っていたのである。私は、他人に対して、そしてそれ以上に自分自身に対して、自分が“ひとかどの人間”であることを証明しなければならなかった。そうしなくては、自分が惨めに思えた。だからディレクターになってからは、ともかくガムシャラに頑張り通した。時間と体力のある限り、いや、それ以上に。時間がもったいなくて、食事をするのが億おっ劫くうに感じられるほどだった。そのため、大きな番組が完成するや否や、私はしばしば過労で倒れ、ある時などは全身が痙攣し、車椅子で帰宅するほどだった。

「どうしてそんなに頑張るの?」 そうたずねられたことがある。

「昔の、駄目だった自分に、復讐するため」

 口には出さなかったが、即座にそういう返答が浮かんだのをまざまざと思い出すことができる。そして気がつくと、私の制作する番組は、NHK内部でかなりの評価を受けるようになっていた。注目も集まり、廊下やエレベーターで会う人たちが、“次はどんな作品を?”と声をかけてくる。“期待しているよ”とも。言った本人は、ほんの挨拶代わり。五分もすればそんなことは忘れている。たとえそうでなくとも、もともと他人の期待など、実に気まぐれで、これほど無責任なものもないのだが、しかし、当時の私は、声をかけられるたび、きまじめに緊張した。そして、期待に応えようと自分にはっぱをかけた。

 また一方、私は常に自分に課するハードルを番組のたびごとに高くしていった。より難易度の高い番組、より労力の要求される番組……。いつしか、そうしないでは満足が得られなくなっていた。もっとできる、自分にはもっとできる。もっと評価も得られるはずだ。こうして私は疲れ果てた」

 川竹さんは正直な人だ。そして率直に過去の自分と対面したことでガンを克服した。そして多くの患者とも交流が始まった。その体験は、ガンを告知された人、闘病中の人に何よりも勇気を与えるだろうと考えている。

  ガンを克服できるタイプ

 2年前に『いのちの田圃』という月刊誌を発行した。誌面を通して患者さんたちの相談に乗っている。

 そこで、自然退縮を実現できる人、できない人の違いは何かについて、川竹さんは次のような態度で、ガンに向かうことができるかどうかだと言っている。

  1. 害になることをやめる
     人はとかく〈足し算健康法〉に走る。良い治療法、良い薬、良い食品、ガン直しに効果のある栄養素を含んだ食物や料理。次々と付け足していく。がしかし、自然退縮を実現させた人たちが真っ先にやったことは〈引き算健康法〉である。煙草、酒、肉、卵、牛乳、加工食品、添加物、白米、白砂糖、夜更かし、不規則な生活、働きすぎ、いさかい、怒り、恨み……。山ほどある〈悪いもの〉、〈悪いこと〉をまずやめた。その上に慎重に選んだ〈良いこと〉を、積み上げている。
    言い訳をやめた
  2.  治ったあの人は自分より……若い。経済力がある。家族の協力がある。症状が軽い。治りやすいガンだった。発見が早かった。幸運だった。情報が手に入りやすかった。コネがあった……何とか、自分の不利な条件を探そうとする。こういう言い訳は、行動力を奪う麻薬。
  3. 取り引きをやめた
     「治るものならやってみたいが、ダメなのならやりたくない」と言う人がいる。典型的な取り引きである。これではうまくいかないだろう。やれることは何でもやる。やる以上は、これで絶対に治ってみせる、と思ってやるべし。
  4. 危機感をしっかり持つ
     パニックになっていながら、もっと近い病院はないかなどと言う。東京のセミナーに、北海道や沖繩からも来る人がいるのに、一時間でも遠いと尻込みする。危機感が足りないせいである。
  5. 希望と自信を持つ
     「どうすれば、希望が持てるだろうか」「治る自信が持てない」と言う人がいる。気持ちは分かるが、希望も自信も、〈行動〉しない限り手に入らない。いや、どちらも実はすでに自分自身のなかに眠っている。それを呼び覚ますのが行動である。
  6. 医者の言葉を跳ねとばす
     「治療法がない」この医者は、『三大療法しか知らない私には、もう打つ手が無い』と言っているだけ。代替療法、自助療法など、治療法はいくらでもある。試すチャンスが来たのだと喜ぼう。

※川竹さんへのインタビューが終わった帰途は、行きとまるで違って心が晴れ晴れとしていた。どんな名医と知り合いになったよりも、川竹さんと知り合えたことがうれしかった。そして、よく考えてみれば、川竹さんは、ガンを克服するための心構えを話しているが、どうもこれは人生をどう生きるかにも共通して言えることだと思った。

※今、川竹さんは、ガンを「治した百人」と、ガンを「治したい千人」が一堂に会し、治癒への道と生きる喜びを、二日間徹底的に語り合うという、世界で初めての大イベントを企画している。

 治った人に会いたい。会って、話を聞きたい。どうやって治したのかを知りたい。あなたもきっと治ると励ましてほしい……12年前の発病時、自らの胸に渦巻いた願いを、今、後に続く患者さんたちのために実現させようというのである。

「一年前に企画した時、千百人なんて無謀だ、やめろという意見が大半でした。まずは百人くらいがいいのではないかとか。でも、治った人が一人や二人では、結局その人は特殊な例で、自分には当てはまらないとあきらめてしまうんです。あの人は特別、私は駄目というふうに。だから、有無を言わさないように、百人をステージにズラズラッと並べるんです。この人も治った、あの人も治った、この人なんかこんなにひどかったのに治ってるって。それを二日間やるんです。よほど臆病な人でも、よし治してやる、必ず治ってみせると言えるようになりますよ。どんな治療よりも効くと、私は思いますね」

 かがり火No92 p12掲載記事