大島の噴火

  1986年というと、もう20年も前のことになる。伊豆の大島が噴火した。テレビが噴火の様子を時々刻々実況中継していた。当時の東京都知事は鈴木俊一氏だったと思うが、島が非常に危険だということで、全島民の避難を決断した。当時の大島の人口はたぶん1万人ぐらいだったと思う。この住民を本土に連れて来なければならないということで、海上保安庁の艦船や海運会社の船が大島港周辺に集結した。

 テレビは住民がリュックを背負って、身の回りのものを抱え、桟橋のタラップを上がるシーンを繰り返し放映していたが、その中に、途中から自分の家に引き返してしまう人がいる。島は全島民退避の勧告が出ていて、非常線が張られているにもかかわらず戻る人がいたのである。

 自衛隊や警察は、家に取り残された人はいないか一軒一軒確認して非常線を張っているのだが、その警察の目を盗んで、家に戻る人がいる。島は轟々たる噴火で揺れている。山の斜面に真っ赤な溶岩が流れ出していた。今にも人家が呑み込まれて、焼き尽くされてしまうという緊迫した状況なのに、それでも自分の家に戻ろうとする住民がいた。私は、この人たちを見て不思議な感動に襲われた。命をかけてまで戻ろうとする意思とは何なのか。単にふるさとへの愛着とか、生まれ育った家への執着といったことでは理解できなかった。両手両足の爪が大地にくい込んでいるような人たち、この場面が後々まで心に残った。

おそらく、土地と家と、自分の命が一体なのだろう。そうしてまで自分の暮らしている土地から離れたくないという理屈を超えた行動に、ただただ圧倒された。

 私は羨ましかった。かくも守るべきもの、しがみついて放したくないものがある人が羨ましかった。

 その人たちの家は決して豪邸でも大邸宅でもないだろう。土地にしたって、金銭に換算したらたかが知れている。しかし、その家を命をかけて守ろうとする。私は、この島の人の気持ちは、自分の後半生をかけて追及する価値のあるものだと思った。

飯田線の中学生

 もう一つは、飯田線の電車の中で遭遇したシーンである。これは『かがり火』を発行した後で目撃したことだが、やはり忘れられない。飯田線というのは、愛知県の豊橋から長野県の辰野、岡谷につながっている線だが、私はその日は水窪に向かって二両連結の普通列車に乗っていた。佐久間あたりを過ぎたときだと思うが、トイレから一人の老婆が出てきた。おそらく狭いトイレでは身支度をしっかりできなかったのだろう、下穿きこそ上げていたものの、モンペのようなものを引きずりながら客車の真ん中に出てきてしまった。いくら年寄りとはいえ、私は目のやり場に困ってどぎまぎしてしまった。そのときだった。中学生ぐらいの女の子がパッとその老婆の後ろに回ったかと思うと、引きずっていた紐を拾い上げて、腰に手を回して結んであげた。そして、また席に戻ってお友だちとおしゃべりを続けた。私はこの場面も不思議に目に焼き付いて忘れられない。

 東京では、西武新宿線と地下鉄東西線で通勤しているが、電車の中で化粧している女性や、電車が止まった瞬間に空席を目指して脱兎のごとく飛び込んでくる人たちを見ているから、飯田線の出来事は不思議な光景だった。

 自分の家の祖母に対すると同じように知らない老婆の世話を自然にしてあげられる子どもたちがいることに私は感動した。ローカル線の中で遭遇した地域共同体の礼儀というようなものを感じた。

 このときも、こういう慣習を残している地域を取材し、伝えていく媒体というものは案外必要なんじゃないかと思ったわけである。