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イバラの道を乗り越えて、海外で高い評価の「イチローズ・モルト」をつくった肥土伊知郎さん

今年の127日、香港のサザビーズのオークションで、「サントリー山崎50年」というウイスキーが3250万円という髙値で落札された。日本のウイスキーでは過去最高額ということだが、近年ジャパニーズウイスキーは海外で高い評価を受けている。日本にはサントリー、ニッカという二大有名ブランドがあるが、ウイスキーファンの間ではいま、「イチローズ・モルト」というブランドが人気で、店頭に並べばたちまち売り切れる。

肥土伊知郎さんがこのウイスキーを世に出すまでの道程は平坦ではなかった。多額の債務を抱えて民事再生法を申請した父親の会社の連帯保証人だったのである。地獄のような日々から這い上がって、いかにしてイギリスからバイヤーが買い付けに来るほどのレベルの高いウイスキーを造ったのか。肥土さんを秩父蒸溜所に訪ねた。

 

 

巨額の債務を抱えて実家が破綻

肥土伊知郎さん(53)は秩父市を発祥とする造り酒屋の21代目である。祖先は寛永年間までさかのぼることができる旧家だが、本格的に日本酒以外を始めたのは祖父の肥土伊惣二氏で、昭和16年に秩父鉄道開通を機に埼玉県羽生市に進出して、新たに本社工場をつくり、日本酒以外に焼酎やウイスキー、合成清酒などを造り始めた。昭和21年にウイスキーの販売免許を取得したのは、進駐軍が来るので洋酒の需要が増えることを予測してのことだったらしい。アルコール類は何でも造ろうとした祖父はチャレンジ精神旺盛な人で、発売したウイスキーに「ゴールデンホース」と命名した。このネーミングはホワイホース社と裁判沙汰になって勝利した、いわく付きのものである。

「私は祖父が亡くなった後の1965年生まれですから、おじいさんの顔は知りません。聞いた話では、ウイスキーを売り出したといっても、十分な熟成を待たずにカラメルなどで着色したイミテーションウイスキーのようなものだったのではないかと推測しています」とおっしゃる。羽生工場が本格的なポットスチル(蒸溜器)を設置して、本場スコットランドと同じ方法でウイスキー造りを始めたのは1980年以降だという。

肥土伊知郎さんは、日本酒の貯蔵タンクの間を走り回って育った。高校を卒業すると蔵元の多くの子弟が通うように東京農業大学醸造学科に進んだ。しかし、このころは日本酒は冬の時代を迎えていて、老舗の蔵元が販売不振と累積赤字でつぶれていた。反対に焼酎ブームが到来、肉体労働者が手っ取り早く酔うためのアルコールというかつてのイメージを払拭して、体にいいおしゃれな飲み物としてもてはやされるようになっていた。鹿児島県では原料となるサツマイモが不足していると伝えられたのもこのごろである。

肥土さんは大学を卒業した1988年、実家には戻らずサントリーに入社した。

「父親も先行きの暗い蔵元を継がせるのはしのびないという気持ちがあったのか、戻って来いとは言いませんでした。僕も日本酒にはそれほど強い愛着を感じなかったので、サントリーに入社した時は、定年まで勤める気でいたんです。ただ、希望していた山崎蒸所ではなく、営業部門に配属されました」

 それでも営業で顧客を開拓し、売上を伸ばす仕事はやりがいもあり楽しかった。それなりの実績も残した。ところがサントリーに入って7年たったころ、父親から戻って来てほしいと連絡があった。

「最初は子どもには苦労させたくないという親心もあったかもしれませんが、どうしても一人では支えきれず、私の力を必要としたのだと思います。私も生産の現場で働きたいという気持ちがふつふつと湧いていたころなので、退社しました」

 実家に戻って分かったのは、経営が厳しいとは聞いていたが、想像以上の悪さだった。肥土さんに与えられた仕事は生産の現場だけではなく、少しでも売上を伸ばすために量販店を回って紙パック入りの経済酒を売ることだった。何とか売上を伸ばして危機を脱却しようと駆け回ったが、日本酒の不振はどうにもならず、赤字が増えるばかりだった。

「そんな時、私は蔵に保存してあったウイスキーの原酒に目をつけたんです。イギリスから輸入した原酒と自社で蒸留した原酒が樽で保存されていました。自社で造った原酒は、クセが強くて売りにくいというのが社内の評判でしたので、本当にそうなのか、私は昼は量販店回り、夜はバー回りをすることにしたんです。名前ではなく中身を正しく評価してくれるのはバーテンダーさんたちだと考えて、原酒を小瓶に詰めて首都圏のバーでテイスティングしてもらったのです。バーテンダーたちは個性的で面白い味だと羽生の原酒を評価してくれて、次々にベテランのバーテンダーを紹介してくれました」

肥土さんのバー巡りは、会社が大変な時期にバカ息子が夜遊びしているとうわさされることになった。しかし、この時のバー巡りが今でもイチローズ・モルトの生産、販売に大きな力となっている。

 

窮地を救ってくれた神々たち

 家業の酒蔵の経営はますます不振に陥り、2000年についに会社は民事再生法を申請する破目になった。裁判所からの通知を債権者に一斉にFAXすると、会社はハチの巣を突いたような騒ぎになった。債権者が押し寄せて、納品した材料を持って帰ろうとする人もいた。破産か自力再生か、会社の売却かなどさまざまな道を模索したが、最終的に関西の酒造会社に売却することになった。しかしこの会社は、日本酒関連の醸造設備や在庫に興味は示したものの、400樽のウイスキー原酒には興味も持たなかった。

「無名のウイスキーは売りにくいし、寝かせていても販売できるまで時間がかかる、広大な場所も必要とする三重苦ということで、期限を切って、原酒の引き取り先が決まらない場合は廃棄すると通告してきたのです。私はバーテンダーたちから高い評価をもらっている原酒が廃棄処分されることは耐え難く、20年以上寝かせている樽を廃棄するのは成人した子どもの命を奪うようなものだと、必死に生き残りの道を探しました」

 その時、神さまのような人が現れた。福島県郡山市の笹の川酒造の山口哲司(現在は襲名により哲蔵)社長である。埼玉県の蔵元の後継者たちが研修で訪問したことがあったので面識はあった。肥土さんの嘆願に、山口社長は原酒を捨てるなど業界の一大損失だと、空いている蔵を提供してくれたのである。笹の川酒造でもチェリーウイスキーという国産ウイスキーを造っていたのも幸運だった。なぜならお酒は販売免許のないところに移すとなると数千万円の酒税がかかってくるからだ。肥土さんは、羽生から原酒の樽を郡山に移した。

「私は笹の川酒造の倉庫で、原酒をワインの空き瓶に詰めて、再びバーを訪問しました。私には販売免許がありませんから、製造・販売は笹の川酒造、企画はイチローズ・モルトとしたのです。ウイスキーの原酒は山崎や白州、余市というように生産された地名を付けるのが一般的ですが、私には蒸溜所がなく、いずれは原酒もなくなってしまうので商品名を自分の名前にしたのです」

 皮肉にも売却先が見捨てた原酒が肥土さんの再起のきっかけになったのである。

 このような悪戦苦闘のイバラの日々に耐えながら、2004年、肥土さんは自分のウイスキーを造りたい一心で有限会社ベンチャーウイスキーを設立した。巨額の債務の連帯保証人になっているため、肥土さんは会社の代表になる資格はない。

 そこへまたまた救世主が現れた。秩父市で書店を経営していた、はとこの宮前恵一氏が会長に就任してくれた上、資本金も出資してくれた。宮前の先祖は秩父事件のころに早くも書店を開業していた開明家で、秩父の文化を担ってきた有力者である。

「ですから建物は宮前さんの会社名義で、土地は埼玉県からの借地です。秩父はウイスキーに重要な水質が良いだけでなく、冷涼な気候も蒸溜所をつくるにふさわしく、再出発するのは生まれ故郷の秩父だと決めていました」

 地元銀行の支店長も、再起を図る肥土さんの誠実で真面目な人柄に惚れて応援してくれるようになった。しかし親戚も支店長も人気の焼酎やワインではなく、斜陽のウイスキーを造ることに懸念を示した。

「あのころウイスキーの総量は減っていましたが、それはペットボトルで売られている安価なウイスキーが焼酎に流れているだけであって、シングル・モルトやプレミアムブレンデッドといわれる高級ウイスキーの売上は落ちていないどころか伸びていたのです。私は足で回ったバー巡りから確実な情報を得ていましたから、データを示して関係者を説得しました」

 逆境にあっても酒造りの情熱は失わなかった肥土さんだが、サントリーでも家業でも肝心な生産の現場にはあまり携わっていない。一から蒸溜所をつくるとなると新しい課題も解決しなければならない。またまた現れた神さまはメルシャンの役員で、軽井沢蒸溜所の責任者だった。肥土さんはメルシャンの好意で2006年のひと夏、ウイスキーの仕込みから樽詰めまでのサイクルを体験することができた。そして2007年には本場スコットランド・スペイサイドにあるベンリアック蒸溜所で実地研修を受けることができた。

「研修中に仕込んだウイスキーは全量、私が買い取るという約束で体験させていただいたのです」

 ウイスキーは原料の大麦を水に漬けて発芽させてモルトをつくり、これを乾燥した後に粉砕、糖化、酵母を加えて発酵、蒸留、樽で寝かせて熟成という工程をたどる。原料は大麦だけと単純なものだが、乾燥させる時の燃料から熟成させる樽の種類など、実に多くの要素が複雑に重なり合っておいしいウイスキーが生まれるのである。

 

バーテンダーの助言が最大の励ましだった

「私が自分の造るウイスキーに自信が持てたのは、何よりバーテンダーたちの励ましとアドバイスがあったからです。テレビでコマーシャルをしている有名なウイスキーだから飲むという人たちではなく、自分の舌に自信のある人たちの助言ですから信頼できたのです。ちなみに会社を設立してからの2年間で回ったバーの数は延べ2000軒、飲んだウイスキーは6000杯にはなっていると思います。酒代も半端じゃありませんでした」

ウイスキーは仕込んでから販売するまでにどんなに早くても3年、一般的には12年である。これだけの時間がかかる飲み物はあまりない。それに「天使の分け前」というように、時間がたつに連れて蒸発して目減りする飲み物なのである。それでも最高の味になるまでじっと待つのがウイスキーである。

肥土伊知郎さんは言う。

「私はサントリーやニッカのような大企業を目指すつもりはありません。売上を追いかけるつもりもありません。ただ、私は社長ですが、ブレンダーでもあります。規模では追い付けませんが、ブレンダーとしては優れた先輩たちに近づきたいと思って努力しています。大企業の社長は毎日テイスティングしたり、倉庫を回って樽の管理をすることはできませんが、私の場合は経営と現場が一体です。創業14年、今期の売上は75千万円になる予測です。私の願いはイチローズ・モルト30年、50年と熟成されたウイスキーを世の中に出していくことです。これからもあの苦しかった日々を忘れることなく、応援してくれた人たちに感謝の気持ちを忘れず、こつこつと精進していくつもりです」

大手二社だけでウイスキー業界を席巻している間は日本に文化の多様性があるとは言えないだろう。ビールの世界ではすでにマイクロブルワリーがいくつも誕生して、激しく競合している。ウイスキーの世界でも小規模な蒸溜所が生まれることが日本に活気をもたらすことになるのではないか。

 

キャプション

1.      巨額の債務の連帯保証人という困難を克服して、人気の高級ウイスキー「イチローズ・モルト」をつくった肥土伊知郎さん。

2.      秩父蒸溜所は冷涼な気候の生まれ故郷、秩父市にある。

 

3.海外でも評判のベンチャーウイスキー秩父蒸溜所の人気商品群。

 

4.現在、原料となる麦芽はイングランドから輸入している。

写真は糖化のためのマッシングという工程。

 

5.ポットスチル(蒸溜器)は本場スコットランドから輸入した。

 

6.醗酵槽にミズナラを使用しているのは、肥土さんのオリジナルである。

 

7.ウイスキーの原酒はまろやかな味になるまで、樽の中で静かに眠っている。

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