●電車に乗っていて、前の座席の横一列の乗客全員がスマホをいじっている光景を見ることが珍しいものではなくなりました。これまで発明されたものの中でスマホは最も人類を夢中にさせている道具かもしれません。圧倒的多数が何かに取りつかれたもののごとくスマホを操作している風景を異様なものとも思わなくなってしまいましたが、もし天才的悪魔が、操作すればするほど知能が低下していくアプリを組み込んでいたとすれば、私たちはみな痴呆です。スマホの全盛と裏腹に書店の衰亡は甚だしく、老舗の書店が次々と廃業しているということです。

●田舎の少年は本屋の立ち読みが大好きでした。公園の前の三浦書店を追い出されれば石川書店へ、石川書店を締め出されれば駅前の加賀谷書店へ回るのが少年の日課でした。翌日、また同じコースを回って、読み差し部分から続きを読むのです。大人の自転車はサドルが高くて足が届かず、フレームの中に足を差し入れて、三角と呼ばれていた漕ぎ方で乗っていました。ある夕暮れ、「今ごろまで何してたなだ!」という母親の叱声を気にしながらの帰宅途中、自転車は小石につまずいて転倒、少年の膝小僧が擦りむけて血が流れました。その時のケガの痕は今でも残っていて、その傷をなでるたびに、はるか昔の立ち読みしていた少年の日を思い出すのです。

●サザエさんの漫画に、カツオが書店で立ち読みしていて、店主にハタキをかけられて追い出される場面が出てきますが、ああいう懐かしい風景が見られなくなってしまうのは何とも寂しい。本屋さんは絶滅危惧業種となって、「立ち読み」も間もなく死語になるのでしょうか。何しろ、小生の若き友人は、書店に足を運ばない読書家です。ネットで書籍の広告を見て、書評を読んで本を注文します。本代をネットで送金するとたちまちダウンロードされて読むことができます。彼は蔵書を持ち歩いている読書家なのです。こういう環境を理解できなくなったのは年を取った証拠なのでしょうか。

●年を取ったせいかどうか、書店ではやたらと老いをテーマにした本が目につくようになりました。まだ若かったころ、高齢の作家はなぜかくも高齢を自慢したり、老化現象を語りたがるのか不思議でした。人間だれでも年を取るのだから黙って静かに年を取っていけばいいものをと冷めた目線で眺めていましたが、いざ自分が年を取ってみるとその考えが間違いであることに気が付きました。好きだったイカ刺しが食べられなくなる、頭に育毛剤をふりかけて抵抗を試みる、昨日会った人の名前が思い出せない、犬の散歩と同じほどトイレが頻繁になる、これら一連の現象は愚痴でもなく嘆きでもなく、新鮮な発見なのです。

●子どもが浮輪なしで泳げるようになった瞬間、周囲に「見て見て」と、その感動を伝えようとするのと同じ心理なのです。昨日までできなかったことが今日できるようになった喜びと、昨日までできたことが今日できなくなったことの悲しみは同種の感動なのです。あまり説得性のある論理ではありませんが、分かる人には分かってもらえるかもしれない。

●私の新聞の愛読欄は訃報と漫画とおわびと訂正欄です。どんなに忙しくても必ず読みます。訃報欄を読むのが好きな人は世の中にたくさんいるようですが、人はここに輪廻転生を感じているのではないでしょうか。私がこの欄を好きなのは、希望が湧いてくるからです。本日は死亡した人がいませんという日はありません。晴れの日も雨の日も人は死にます。そして、どんなに偉い人や有名人が亡くなっても、翌日はちゃんと陽は昇り、青空が広がっています。人がいくら死んでも世界は続くと思えば元気が出ませんか。

●恥ずかしながら小生の人生観は高邁な文学や哲学からではなく、歌謡曲と映画と落語で培われたものです。小津安二郎の『小早川家の秋』という映画があります。ラストのほうで百姓に扮した笠智衆が火葬場の煙を見上げて、「死んでも死んでも、あとからあとから、せんぐりせんぐり生まれてくるわ」と言うシーンがあります。このせんぐりという言葉は衝撃的でした。関西方面の方言で、「次々に」「順番に」を意味するようですが、人間不変の真理を言い当てていると思ったのです。

●方丈記に、「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止まる事なし。世の中にある人と住家と、またかくの如し」とありますが、「せんぐり」は鴨長明が言っていたことを分かりやすく言い換えてくれた言葉でしょう。こういうことを書けば、無常観にとらわれていると誤解する人がいるかもしれませんが、まったくそんなことはありません。川の水が絶えず流れているからこそ、私たちは今日を精いっぱい生きられるのだと思っています。うーむ、今月は哲学を語っちゃったかな。(KS)