支局長便り

支局長便り

織物工場のあった町への旅

                 チャルネッキィ聡・ジョー
               (
イタリア フォリーニョ支局) 

 

妻の祖母が働いていた町へのドライブ

 それは実に不思議な一日だった。父ブルックハルドがドイツ北西部ハノーファーから1週間ほどフォリーニョに遊びにきていた時の話である。私の近況も含めながら、その一部始終を書き記してみようと思う。

 最近、私は自動車教習所に通っている。私の指導に当たっているのは、サンタクロースの格好が似合いそうな、白髪に白髭を生やしたアッティリオという60すぎの教官である。鬼教官というほどではないが、4人いる教官の中で最も厳しい教官である。マニュアル車の運転になかなか慣れない私は その日の朝も彼に半分怒鳴られていたところだった。その日は、前回の記事(本誌167)で紹介した義父の故郷「セッローネ」に続く山道を走っていた。イタリアでは教習所ではなく、いきなり公道を走って練習する。親しくなった教官に義父がセッローネ出身だという話をすると、「そりゃぁ面白い。俺の母ちゃんは、隣村のラシィリアの出身だ。この山道は、俺が若い時に車の運転を学んだ道なのさ」と意外な言葉が返ってきた。アッティリオはたまに怒鳴ることもあるが、こうして笑顔で話している時は、温厚な人柄がにじみ出ている。さすがベテラン教官と呼ばれるだけあって険しい山道でもテンポよく的確な指示を出してくれ、この日は初めて運転の楽しさを実感できた。

 実習後、市内で父親と落ち合った。マイペースで、ややお調子者の父は、午前中カフェでくつろいだりして、この一人旅をエンジョイしているようだった。それからわが家で昼食を取り、妻と次男坊のアンドレアスを連れて車で観光に出掛けた。まずは「コルフィオリート」という赤ジャガイモの産地に向かった。だが、妻が高速道路の出口を間違え、フォリーニョ方面に引き返す羽目に。結局、コルフィオリート行きを取りやめにし、私がその日の朝、実習で通った山道を経由して義父の故郷セッローネに向かうことにした。すると妻がセッローネは後にして、ラシィリアに行こうと言い出した。私は教官アッティリオの出身地がラシィリアだったことを思い出した。

 山道を登り終えたあたりに、妻の祖父母が眠る墓地がある。この日、出発前に妻は「最近、祖父母のお墓参りに行っていないから、とても申し訳ない気がして……」と口にしていた。彼女は自分自身に言い訳するように「でも、祖父母との思い出が残っているのは、やっぱりセッローネのあの家やあの辺の町並みだから、そんな場所に行った方が、よっぽど祖父母を近くに感じられて」と言う。妻はかなりのおばあちゃん子だったそうだ。来訪者を誰でも快くもてなす、人情あふれる家族思いの祖母だったらしい。

 

村のエネルギーを支える水力発電所

 30分ほどでたどり着いたラシィリアは、10分も歩けば集落全体を回れる山中の小さな村だった。人の気配は全く感じられないのだが、昔ながらの石畳が近代風に舗装されていて、とても手入れの行き届いた村であった。1本の坂道に沿って、こぢんまりとした石造りの民家が立ち並び、その真ん中を突っ切るように、ガラス色に透き通った小川が流れ下る。まばゆい緑色の水草が生い茂る水路を見ると、思わず手を入れて冷ややかな水の感触を味わいたくなる。村のシンボルでもあるこの小川が、ラシィリアの歴史を支えてきた。

 坂道を登りつめた所には、ぶくぶくと水が湧き出る水源がある。そこでパシャパシャ写真を撮る父の姿を、近くにいた住民らしき中年男性がジロジロ見ていた。ひょっとしたら、彼の私有地で断りもせずに写真を撮っていたから怒らせてしまったのかもしれない。すると、ついにこの男性が私の方に近づいてきて一言「あんたら、ここら辺の者かい?」と尋ねてきた。私はてっきりこの男性が憤慨しているものだと思い込んでいたので、「いや、私はここの者ではないのですが、妻はフォリーニョ人です」と、妻が地元民であることを強調して、その場を逃れようとした。すると、この男性は怒っている様子ではなかったので、「私は日本から、そしてここにいる父はドイツから来ました」と言葉を加えた。

 すると男性は私たちの方に歩み寄り「この水源、きれいだと思わないかい」とうれしそうに話し始めた。アルバロさんという名のこの男性は、村のイベントなどをオーガナイズする、いわば町内会役員のような人物であった。夏もとっくに過ぎたシーズンオフのしかも平日に来ていた観光客を見て、物珍しさに話しかけてきたのだった。私たちがここに来た経緯を話すと、アルバロさんの表情はどんどんほころんでいった。途中から会話に参加してきた妻が「実は私の祖母が生前、この村の織物工場で働いていたんです」と言うと、アルバロさんは笑顔いっぱいになって「それは何と素晴らしいことだ。もしよかったら、工場跡を見学していかないかい?」と尋ねてきた。私たちは大喜びで案内をお願いした。

 彼はまず、この村の中核を担う水力発電所に案内してくれた。何とラシィリアは、小川の水を利用して既に1904年に水力発電を開始していたのだ。当時は大都市に負けない革新的な村だったそうだ。アルバロさんは、わざわざ発電所の鍵を取りに戻ってくれ、普通の人では入れない施設内部を見せてくれた。扉を開けると、勉強部屋程度の狭いスペースに、豪快な水音が鳴り響いていた。発電機には一部、新しいものが加えられていたが、当時のタービンもちゃんと残されていた。100年以上そこで回り続けてきたという、くすんだ茶色のタービンはずっしりと重厚な雰囲気を漂わせていた。アルバロさんは水音に負けない大声で、事細かに設備の説明をしてくれた。だが、こちらにしゃべる隙を与えないほど早口で、私は彼のイタリア語を理解するのに必死だった。

 推測だとこの村の起源は、西暦300年ころにまでさかのぼるらしい。当時から小川に沿って村が開拓され、1400年代に大きな水車が2台造られた。それから本格的な毛糸の生産が始まり、産業発展の波が訪れた。1900年初頭に水力発電が始まると、国内でも指折りの織物工場ができ、周辺の人々の働き口となった。そこで妻の祖母も働いていたのである。

 

時が止まったような田舎の風景

 発電所のすぐ近くには、かつて工場の一部として使用されていたという古い建物があった。しかし工場跡は建物の2階部分で、中をのぞくには、結構な高さの石を積んだ堤を伝って行かねばならない。川に落ちてしまわないかヒヤヒヤしながら窓に近づくと、いまにも動き出だしそうな巨大な織り機がすぐさま目に入った。ペルシャ絨毯の模様を少しシンプルにしたような、緑と白の植物柄の織物がまだ織りかけの状態だった。部屋はほこりをかぶっているものの、全て当時の面影を残したままで、まるでその時代にタイムスリップしたかのような光景だった。私にとってもそれだけ印象的なものだったから、そこで働いていた祖母の姿を投影しながらのぞいた妻は、きっと言葉にできないほどの喜びを抱いたに違いない。

 村を歩いていると、壁のところどころに飾られた大きなパネルが目に入る。昔のラシィリアの写真を拡大したもので、当時の織物工場で働く人々がモチーフになったものもある。先ほどあれだけリアルな織り機を目の当たりにしただけに、ノスタルジックな雰囲気は高まるばかりであった。

 下流の方では、村民と思われる人たちが67人集まって世間話をしていた。その周りでは、数匹の猫がウロウロしていて、のんびりとした雰囲気が漂っている。アルバロさんは、その人たちに自慢するかのように、大声で私たちの紹介を始めた。妻の祖母がここで働いていたと言うと、そこにいた一番年配の女性が祖母の名前を聞いてきた。妻の祖母は、イタリア語で仏のマルセイユを意味する「マルシィリア」という名前である。父親がマルセイユに魅せられて付けたというこの名前は、この辺でも珍しく、年配の女性はすぐに誰のことだか分かったようだった。「あんたが彼女の孫かい……」。年配女性は、まるで自分の孫を見つめるようなまなざしで妻を見つめ、祖母にまつわる話をしてくれた。その横では、一緒に連れてきた次男坊が周りにニコニコと笑顔を振りまき、和やかな雰囲気をつくってくれた。もしマルシィリアおばあちゃんもこの笑顔を見ることができたら……。きっとそこに居合わせた誰もが、そんな想いを抱いたはずである。それからその場は、地元の話題でどんどん盛り上がっていった。

 

 いつか日本の友人たちにもこの村を案内したい

 こうして村の人たちに囲まれていると、昔の空気が今でもそのまま流れているような錯覚に陥る。しかし、この村の過疎化は深刻だ。戦後まもない1940年代後期に織物工場の主要施設がフォリーニョに移転してからというもの、徐々に若者は村を離れていくようになった。20年前の震災がそれに追い打ちをかけ、今では先祖代々受け継がれてきた民家のほとんどが空き家状態になっている。村民は現在、38人にまで減少した。小さな商店や住民の集まる喫茶店も閉店し、村中が閑散としている。 たとえこの村で暮らしたくとも、夕飯の食材やちょっとした生活用品すらそろわないのだ。ほんのわずかな夏の間だけ、麓で暮らす人々が涼みに戻ってきて昔の姿を取り戻すのだが、夏が終わればまた村中が静まり返ってしまう。

 かつて「ミラノに匹敵する」とまで言われたこの村は今、崩壊の危機にさらされている。どんよりとした灰色の空の後ろに沈んでいく夕日は、まさにそれを物語っているかのようだった。

 しかしそれでも、この村から完全に明かりが途絶えてしまうことはないだろう。ここで育った人々の地元愛が絶えず注がれ続けているからだ。地元民たちは毎年、皆でお金を出し合って、村おこしのための投資をしているという。村内に飾られているパネルもそうした試みの一つだそうだ。どんなに頑張っても集まるお金は総額6千~8千ユーロ(日本円で70万~90万円前後)というから、決して大きなことができる額ではない。アルバロさんは、それでも各地から訪問客を集めようと必死だ。村の歴史を後世に伝えるため、小学校などの団体向けに工場跡の見学会も実施しているという。

 最後に案内された工場跡の資料館には、来訪者が署名を残していくノートが2冊並べてあり、私たちもそこにサインするよう強くお願いされた。アルバロさんいわく、私たちの署名があれば、海外からも訪問客が来たという証しになり、ノートに箔がつくそうだ。彼にとって、このノートは宝物なのだ。村のことを熱心に語る彼のまなざしからは、地元に対する純粋な想いが切に感じられた。

 そんな彼の姿に私は心を打たれ「いつか日本からの訪問客も連れてきますから」と思い切った約束をしてしまった。感激のあまり両手で握手を求めてきた彼との約束を、私はいつか必ず果たすつもりだ。

 その晩、妻はとても幸せそうに祖母との思い出を語り続けていた。

 

 キャプション

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 1.坂道の両側にこぢんまりした民家が立ち並ぶラシィリア。

 

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 2.古くからラシィリアの変遷を見てきた小川が、町の真ん中を流れている。

 

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 3.ラシィリアに観光客を呼び込もうと必死なアルバロさん。

 

 

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 4..豊富な湧水が水力発電のタービンを回していた。

 

 

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 5.町の人たちに愛想を振りまく次男のアンドレアス。

 

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 6.偶然にも妻の祖母の若いころを知っていたおばあちゃんもいた。

 

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 7.民家の壁面には、繁栄していたころの町の暮らしの様子がパネルで飾られていた。

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