特  集

素晴らしきかな、酪農人生。

少年の夢を実現した香川県三木町の広野正則さん

 

リード

 新たに酪農を始めるには土地の確保、乳牛の購入、牛舎の建設、設備や飼料など巨額の初期投資がかかる。酪農家の後継者ならばある程度の環境は用意されているが、親が酪農家でない子どもが牛を飼い始めることは昔も今もリスクの伴う大冒険である。

 広野正則さん(65)は27歳の時、左官業だった親の反対を押し切って就農した。お金も土地もなかったが、酪農家になるのは子どものころからの夢だった。あるのは「農家の子どもでなくても農業で自立したい」という強い思いだった。

徒手空拳で始めた広野牧場はいま、乳牛300頭、従業員25人、昨年度の売上高は45900万円の優良企業に成長した。

 “念ずれば花開く”という言葉があるが、まさしく広野さんの思いは花開いたのである。広野牧場は本誌135号で元気な女性スタッフの寄稿を掲載、172号で『かがり火』日記にもご登場いただいたが、今回は広野さんご本人の酪農人生をご紹介したい。

 

ゼロからの出発

 日本が高度経済成長のど真ん中にいた昭和40年代は、農業に対するイメージは不当に低かった。就職の花形は建設でありメーカーであり、商社、金融だった。ワイシャツにネクタイ姿で働ける会社員になることが憧れであり、中学高校を卒業した地方の子どもたちは一目散に都会の企業を目指した。

広野さんが中学生のころ、地方の子どもたちは“金の卵”と持てはやされていた時代である。やむなく農家の後継者にならなければいけない子どもたちは、就職で上京する同級生を羨望のまなざしで見送った。

それでも農家の長男には継ぐべき土地や家屋、資産があったが、非農家の子どもが就農するのは非常に珍しく、まして酪農を始めるのは至難の業だった。

「父親は腕のいい左官の職人でした。田んぼと畑を合わせて5反ばかりの農地がありましたから純然たる非農家というわけではありませんでしたが、土地条件が悪く、とても農業で食っていけるほどの規模ではありません。中学を卒業する時、農業高校に進学して、将来は農業をやりたいと言ったら両親は大反対で、親戚まで駆け付けて来て説得されたほどです。農家の息子でもない私がなぜ農業を目指すようになったか自分でもはっきり分からないのですが、小学生のころ、香川県からブラジルに移住した人たちが広大な土地でスケールの大きい農業をしているのをテレビで見て、心を躍らせたことがあります」

 結局、親の説得に従って進学校に進んだ。クラスメートはほとんど大学進学希望だったが、広野さんの農業への夢がしぼむことはなかった。

「農業といっても私は稲作や畑作ではなく、酪農をやりたいと思っていました。高校や中学の同窓会があると昔のクラスメートや先生は“おまえはいつも牛の話をしていたな”というほどですから、よっぽど牛飼いになりたかったんでしょう。三木町は決して酪農が盛んな土地ではないのですが、私は小さいころから生き物を飼うのが好きで、ニワトリやウサギを飼っていたり、禁じられていましたが近所の山でオオルリ、コマドリ、ウグイスなど野鳥を捕獲して家で飼ったりしていたんです」

 当時は都市に出て会社に就職することを親も教師も勧めていたから、兄二人はさっさと家を出て大企業に就職していた。高校を卒業する時に広野さんは再び親の反対に遭うことになった。しかし、高校の3年間でも本人の意思が少しもぐらついていないことを知った父親は、しぶしぶだったが県立農業短期大学に進学することを許してくれた。

「農業短大では私は迷わず酪農を選択しました。家には2頭の農耕牛がいたので、飼料づくりや、牛に鋤を付けて田んぼの代掻きを手伝っていました。この経験が酪農につながったというわけではありませんが、牛の世話をするのは嫌ではありませんでした。酪農を始めるには大きなお金が必要だということは知っていましたが、うまくいけば手にするお金も大きいということも知っていました」

昭和46年、短期大学を卒業と同時に北海道江別市の酪農家に研修に入った。1年後、県の海外研修制度に応募してデンマークの酪農家にホームステイした。

「北海道では酪農の基礎的なことを学びましたが、デンマークの研修では日本とのあまりの違いに驚きました。いちばんの違いは土曜日曜は働かないことです。酪農家ですから、朝晩の搾乳と飼料はやりますが、他のことは一切やりません。日本だと搾乳が終わっても牛舎の掃除や農機具を整備したり、田んぼや畑を耕したり、何やかやと農作業をするのですが、彼らは余暇を家族で楽しんでいるんです。いちばん違うと思ったのは農家に対する世間の評価です。敬意を払われているというか、一目置かれている存在というのがよく分かりました。酪農家も誇りを持って経営をしていました。日本では農業は農家の息子が代々継ぐものという固定観念があって、私のような選択は奇異な目で見られていましたから、デンマークの風潮はうらやましかったです。

 私のホームステイした酪農家は乳牛と豚を飼っていて、集荷業者は生乳を運んでいく代わりにホエーを置いていくんです。タンクローリーが生乳とホエーと2室に分かれていて、無駄がありません。酪農家がチーズ工場に生乳を出荷し、工場で出たホエーを酪農家に戻し、それを飼っている豚に飲ませていたのだと思いますが、実に合理的だと感心しました」(ホエーとは、チーズを加工する時に出る牛乳の搾りかすのこと)。

奥さまの弘子さんはデンマークに派遣された6人の研修生の一人で、出発も帰国も一緒だった。

「妻は東京出身でお父さんは国鉄勤務ですが、それなのに酪農を目指しているのは当時としては変わった女性だったと思います。私たちは帰国して3年目に結婚することになりました」

1年間の海外研修を終えて帰国したが、酪農を始める環境があるわけではない。牛を買ったり牛舎を建てる資金はなかった。何より牧場となる土地取得のめども立たなかった。

「遊んでもいられないので、知人の紹介で隣町の大川農協に就職することになりました。農業資材の販売や貯金の勧誘などで毎日地元農家を回る4年間でしたが、私も妻も一日も早く牧場をオープンしたいという一心で、毎日のように夢を語り合い、計画書を書いていたものです」

 

借り入れの苦い思い出

昭和52年、農協勤務のまま牧場開設の準備を始めた。農業後継者資金の制度を利用して、200万円の借り入れを起こして12頭の子牛を購入、簡易牛舎も建てた。

「お金を借りるということはこんなにも大変なことかと思い知らされました。私は農協勤務のまま、牧場開設の準備を進めたいと思っていたのですが、“広野は農家の子どもではないのに貸し付けても大丈夫か”“農協の職員なのに本当に酪農をやるのか”“農協を辞めるという念書を書かせろ”“貸し倒れにならないか”などいろいろ言われました」

子牛はまだ乳を搾れないから、餌だけ与えておけばいいので勤務しながらでも飼育は可能だったのである。乳牛は大体12カ月から14カ月で成牛になって受精が可能になる。それから10カ月後に分娩して搾乳できる。広野さんは搾乳が可能になったころに農協を辞めて牧場をオープンさせるという腹づもりだった。

昭和54年、広野さんは農協を退職していよいよ本格的に酪農経営をスタートさせることになった。経営を早く軌道に乗せるためにも、設備もある程度は充実させる必要がある。再び大きな借り入れ起こさなければならない。総合資金1375万円と近代化資金336万円の二本を合わせて約1711万円の借り入れを起こした。200万円の時も大変だったが、今度は額も大きいだけに融資審査も厳しかった。その時の大変さは今でも頭にこびりついていて離れない。

「父親が家だけは担保に入れんといてくれと言ったのですが、あるだけのものは担保にしないと貸してくれません。私は絶対に成功するという確信があったので、無理やり説得して印鑑を押してもらいました。困ったのは家族以外の連帯保証人を一人立てなさいという決まりです。27歳の若僧の、それも海のものとも山のものとも分からない新事業の保証をするのですから、誰でも尻込みします。親戚のおじさんに頭を下げて無理やり保証人になってもらいました」 

広野牧場開設に当たっては40頭を飼える牛舎を建設したが、当初は自分が育てた10頭(2頭は成牛にならなかった)と、新たに9頭の乳牛を購入、1頭は結婚した時にお祝いにプレゼントされていたので合計20頭でのスタートだった。

総合資金の1375万円の返済は、5年据え置きの20年払い、返済は年額1168000円。広野さんが今でも端数までしっかり覚えているのは、返済がいかに負担だったかの証しである。

「当時は金利は4.6%、預ける側はうれしい金利ですが、返す側は大変な時代でした」

乳牛の現場は今とは雲泥の差である。現在の広野牧場は搾乳の時間になれば、牛は牛舎の柵を開けてやれば、自発的に一列縦隊で搾乳場に入ってくる。乳房にミルカーという搾乳機を装着すれば、自動的に乳を搾り、貯蔵タンクにためられる。乳量から乳質まで自動的に分析され記録される。タンクにためられた生乳はポンプでタンクローリーに吸い上げられて運ばれていく。

広野さんが始めたころは今でも農業体験などで使われているような、乳牛の下にバケツを置いて、搾乳機を装填して搾るやり方だった。1頭終えればバケツを持って次の牛に移動する。一頭ずつしゃがんでの作業だったし、バケツも重い。搾った生乳はミルク缶に入れて軽トラで集乳場へ運ばなければならない。ミルク缶は36ℓ入りで、満タンにすると40kgある。これを軽トラックに運び上げるのは重労働で、この作業で腰を痛めて廃業した酪農家がいたほどである。

 

悪夢の生産調整

それでも念願の牧場を開設できたことは広野夫妻の大きな喜びだった。毎日、6時に起きて牛舎に入り、餌をやり搾乳する。搾った生乳を集乳場に届けてから自宅に戻って朝食を取る。当初は夫婦で牛舎に入ったが、4年後に夫人が子宮外妊娠を告げられて体調を崩し、それからは広野さんが独りで働くことになった。

「この生活を、平成7年に牛にくるぶしを蹴られて骨折し、2カ月の入院を余儀なくされるまで17年間一日も休みなく続けました。返済は大変でしたが、作業をつらいと思ったことは一度もありません、何しろ自分の夢がかなったんですから、ゆくゆくはあれもしたいこれもしたいと将来の計画を考えるのは楽しいことでした」

 借金はあるものの、まずは順調な広野牧場のスタートだった。しかし、やがて酪農に暗雲が漂い始めた。生乳の需要と供給のバランスが崩れて生産調整が始まったのである。乳価の暴落を防ぐために、割り当てられた乳量以上は出荷できなくなった。地域によっては指定団体の担当者が酪農家を訪ねて制限以上の生乳に食紅を混入して流通できないようにしたり、テレビで、行き詰まった酪農家の夜逃げを伝えていたのもこのころである。広野さんも売り上げは減り、返済が滞る苦境に陥った。

「借り入れの返済があるのに、出荷ができない。つまり売り上げが上がらない。それなのに飼料代は毎日かかるから赤字が膨らむ。眠れない夜が続きました。生産調整は実績に応じて減乳を義務づけられるのですが、冬場が厳しく夏場は緩くなるんです。いっとき出荷フリーになる時期があるので、その時は一気に出荷するんです。といっても生き物ですから、人間の都合に合わせて牛は乳量を出したり引っ込めたりはできないわけで、本当に困りました。農協に行って、これではとても返済できないから酪農はやめたいと訴えたほどです。乳牛を売ることは命取りになるので必死に我慢して、子牛を販売したりオス牛を肥育したり、薄氷を踏む思いで踏みとどまったのです」

 

乳牛の一生

 日本の酪農家は約18000戸、飼養頭数は約137万頭。酪農家が搾った生乳は全国に10カ所ある指定団体に運ばれる。指定団体というのは農協の組織で、ここに集められた生乳が、明治や森永などの乳業メーカーに販売される。日本の生乳は「一元集荷多元販売」が建前で、酪農家が指定団体に委託するシステムである。自分で殺菌処理をして容器に充填して売ることが禁じられているわけではないが、設備装置に膨大なお金がかかるので、ほとんどの酪農家は委託している。指定団体を通さないと各種の補助金も受けられない。

乳牛は北海道の北見、十勝、釧路、根室、豊富に市場があり、酪農家はここで乳牛を購入する。広野牧場は毎年約45頭を買ってくる。購入する乳牛は初妊牛といって妊娠8カ月の牛、広野牧場に引き取られて2カ月後に分娩して搾乳が始まる。分娩の前の2カ月は乾乳といって、搾乳を休んで牛に体力をつけさせる。分娩した牛は100日以内に人工授精によって再び妊娠する。こうして乳牛は一生のうちで3回から4回分娩する。乳牛は妊娠して子を生まないと乳が出ないので、飼われている間は常に妊娠していることになる。一頭の牛は平均すれば2.5産だが広野牧場は3.5産である。これはたいへん効率が良く、優良農場の証拠である。乳牛の一生は5年から6年、年を取って乳量が減ってくると廃牛となり、肉になる。

 一頭の牛からは年間で約8000㎏の生乳が取れるというのが一般的な数字だが、広野牧場の牛は11500㎏の乳を出す。生乳の価格は毎年指定団体と乳業メーカーとの間で取り決められる。乳価は一律でベテランも新人も同じ、酪農家にとってはいかにたくさん乳量を搾れるかが勝負になる。

「いかに牛に飼料を食べさせるかが飼養技術です。たくさん食べる牛からはたくさんの乳が出ます。牛舎の清潔さを保って牛にストレスを与えない健康管理、牛の状態を把握する観察能力も重要です。うちは平成13年に個人から有限会社に法人化したのですが、それ以来増収増益を続けていられるのは、牛の管理が非常にうまくいっているからでしょうか」

ちなみに乳量の単位はℓではなく㎏である。正確にいうと1ℓは約1.03㎏。

 

税理士と顧問契約

 広野さんは平成13年に法人化すると同時に、高松市の税理士さんと顧問契約をした。健全な経営を維持するためには、乳牛を世話する現場だけでなく、財務内容を専門家に分析してもらい、問題点を把握する必要があると考えたからである。広野さんは法人化する以前から農業も企業と同じような会計は必要と考えていた。

税理士は通常の決算書以外に、自己資本比率、総資本回転率、売上高付加価値率、乳牛一頭当たり付加価値などあらゆる角度から牧場経営を分析している。

広野さんのすごいところは、これらの決算資料をすべて公開していることだ。

「毎年決算検討会を行っていて、データはすべてオープンにしています。検討会に参加いただいているのは牧場の全従業員、取引先の飼料会社、香川県と三木町の畜産担当者、取引先の地元金融機関4行、獣医師、香川大学の農学部など約40人です」

ここまで透明性の高い企業は中小企業でも珍しい。何せ人件費もすべて公開するから、役員の報酬もすべてオープンなのである。普通は従業員から、社長はそんなにもらっているのかと思われたくないために隠したがるものだが、“うまくやれば酪農もここまで稼げるのか”と従業員に知ってもらったほうが、モチベーションは上がると広野さんは考えている。

現在、牧場の正社員は男性7人、女性9人、臨時雇用が9人で計25人である。面白いのは実家が農家という従業員は一人もいない。

「大学や高校の新卒、外食産業や公務員など前職はさまざまですが、うちに来て初めて牛に触ったという人がほとんどです。酪農に関心があっただけに、作業を覚えるのが早く、どんな状況でも仕事を投げ出さない今の若者はすごいと感心しています」

朝夕の搾乳時間は牧場がいちばん活気づく。250頭の牛が牛舎から出て搾乳場にやってくる(乾乳の牛が約50頭)。牛にミルカーという搾乳機が装着され、若いスタッフがスピーディーに乳しぼり作業をする。一頭当たりの搾乳時間は78分、これが250頭だから大体4時間かかる。搾乳が終わった牛は整然と自分の牛舎に戻っていく。

 スタッフは搾乳が終わると牛舎の掃除、飼料の準備、器具の整備などを行い、午後の作業が始まるまで休憩時間となる。この時間は体を休める人や自宅にいったん帰る人、ログハウスの交流施設で国家試験の準備をする人など思い思いの時間を過ごす。会社員ならば決まった勤務時間に拘束され、私用はできないが、牧場の労働は思いのほか自由なのである。ここでは先輩後輩はあっても上司と部下の上下関係はない。政府は企業の残業を問題にして働き方改革に取り組んでいるが、広野牧場に社員を管理するという思想はない。

 牧場の出勤時間は5時、6時、9時の三つに分かれていて、朝の搾乳に入った人は夜の搾乳はしない。この勤務時間に社長が関与することはまずない。入社6年目の牧場長を中心にスタッフがお互いに話し合って勤務表を作成している。スタッフが休むにしても社長の許可を取る必要はなく、現場スタッフだけでやりくりする。働かされているという意識よりも、自分たちで牧場を支えているという意識のほうが強いのだろう。

 

「森のいちご」と「MUCCA(ムッカ)」オープン

 平成20年、経営にも少し余裕ができたので、三木町の3戸の農家と協力して資本金1000万円で観光農園「森のいちご」を立ち上げた。これといった観光施設のない三木町に何か施設をつくって町外からの観光客を集め、町を活性化しようという狙いだった。広野牧場の従業員に多様な仕事を提供し、楽しい会社にしたいという思いもあった。

「森のいちご」開設に当たって本田龍さんを社長に迎えた。本田さんは元広野牧場の社員で、牧場を退職して大阪の実家に戻っていたが、彼の真面目な働きぶりを高く評価していた広野さんは本田さんに声を掛けた。本田さんが銀行から融資を受けるに当たって2500万円の連帯保証人となった。

「私も多くの方に応援してもらってここまできました。27歳の時、農協の信連に借り入れを申し込んだ時、なかなかOKが出なかった。実績がないこと、家業が農業でないこと、担保がないことなどでハードルは高かったんです。ずうっと後になって、窓口となっていただいた香川さんという方が、私のために鉛筆をなめてくれたということが分かりました。何とか融資が受けられるように申請書や計画書を修正し、知恵を絞って審査が通るようにしてくれたというのです。このことは後になって分かりました」

こういう経験があるから、広野さんも本田さんを支えたかった。

平成25年に、ジェラートを食べさせる店「ムッカ(MUCCA=イタリア語で乳牛)」をオープン。楽しく働くには職種に変化があったほうがいい、毎日搾乳ばかり、餌やりばかりというよりは、店頭でお客さんと会話したり、新商品開発に知恵を絞ったりするほうが面白いに決まっていると広野さんは考えた。

酪農家は生乳を出荷するだけで直接販売することはできない。しかし上限3000 までは加工が許されているので、自分たちで搾った乳は自分たちで加工して、お客さんに味わってほしいという従業員の願望に応じたものでもあった。

広野牧場では社員の自主性を大切にしていて、“私は、これをやりたい”と手を挙げる人の意思を最大限尊重するようにしている。

広野牧場は、地域交流牧場全国連絡会にも加盟している。この連絡会は中央酪農会議が中心となって結成されたもので、学校などと連携して子どもたちに酪農を通して食と命の循環を学んでもらうためのものだ。広野牧場には年間500人、「ムッカ」には4万人の来場者がある。

 

医師並みの報酬

平成18年に長男の豊さんが手伝うことになり、規模拡大に踏み切った。このころから急速に経営は好転し、余剰金が出るようになった。顧問税理士によれば、「広野さんは医師並みの高額納税者になった珍しい新規就農者」ということになる。しかし、広野さんの生活は堅実である。高級外車を乗り回すわけでもなく、余ったお金は内部留保に回され、牧場の規模拡大や何かあった時のために蓄えられている。

「赤字が3年も続くことがあっても牧場が持ちこたえられるようにしておきたい」という。

広野さんは従業員の研修は積極的に支援している。3人が人工授精師と受精卵移植士の資格

を取得している。酪農教育ファームファシリテーターの認定を得ているスタッフも2名い

る。

広野正則さんの成功の原因の第一に挙げられるのは、やはり人間性だろうか。おおらかで開放的である。だから人が寄ってくる。人が寄るところには情報が集まる。広野さんはどんなに忙しい時でも、訪ねて来る人を断ったことはないという。

二つ目は数字に強いこと。牧場を開設したころの借入金や返済額、乳牛の頭数や乳量など質問すればたちどころに答えが返ってくる。分娩までの日数が一日短くなれば、どれだけの売り上げ収益が違ってくるか直ちに言うことができる。数値に詳しいから計画性も優れている。

 三つ目は牛への愛情。肉牛の肥育でなく酪農を選んだのは出産に立ち会えるからだという。日々の食生活に欠くことのできない牛乳を出してくれる牛に、敬虔な気持ちで感謝している。単に経済動物し割り切っていない。

今年4月、広野牧場はピザとチーズの店「バッカ(BACCA=イタリア語でメス牛)」をオープンさせた。昨年からチーズ作りに挑戦したいと手を挙げた社員が国内のチーズ工房に研修に出掛け、試作を繰り返してきた。

「最初は来店客のみの対応です。チーズとピザ、それにジェラートといちご、ますます楽しい会社、元気な地域になると思っています」

広野さんは、昔と違って新規就農のハードルも低くなったし、農業は楽しい仕事だという。

「土地もお金も技術もないけれど農業を目指すという若者を、私は応援したいんです。農業では食っていけないとよく言われますが、そんなことはありません。強い思いを持って、その思いをきちんと数字で押さえ、事業計画を立て、それを第三者に説明できれば夢は実現できます。もちろんハードルはあります。そのハードルを超えていくことが楽しいのです。デンマークのように農業という産業が社会の中に認められ、働く者が自信と誇りが持てる職業になれば、農業は一層魅力的になると信じています」

広野さんが就農したころ、農業は軽視されていた。日本は高度経済成長に浮かれ、都会に出ることが素晴らしいことだという雰囲気だった。広野さんはそのイメージを変えることに成功したのである。

 

 子どもたちに酪農を通して命と食の大切さと感謝の心を教える、広野正則さん。

 

 初めて牛に触れた人でも、半月もすればこのように親しくなる。

 

 社員の自主性を重んじているから、職場は明るく生き生きしている。面白いことに、農家出身の人は一人もいないという。。

 

 自社で搾った牛乳で作るジェラートは三木町の人気の特産物になった。

 

 連休や夏休みには行列ができるほどの人気である。

 

中央酪農会議の会議に出席するため、毎月のように上京する広野さん。

 

300頭を飼う広野牧場の牛舎は清潔が保たれている

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