特  集

地域づくりのポンプ役を果たす福祉施設、

優輝福祉会理事長の熊原 保さん

 

 地域の衰退は人口減少だけではない。産業の空洞化も深刻な問題である。道路や治山治水の公共事業が地方の経済を支えていた時代は終わった。しかし、公共事業に代わる新しい産業を産み出すのは至難の業である。

広島県の県北地域に全く新しい発想で有力産業を生み出している人がいる。福祉施設は老人や障害者をケアする施設としてだけではなく有望な雇用の場であり、新しい生産の場であるという考え方で、民間の売上高に当たる運営事業費が17億円、従業員300人の立派な産業に育てた福祉一筋の熊原保さん(62)に、過疎地域の福祉のあり方について聞いた。

 

親友のバイク事故で福祉の道を目指す

 地域を回ればあちこちで海外に移転してしまったがらんどうの工場などが目につくが、代わって見かける立派な建物は老人ホームや障害者施設である。福祉の事業が施設内で完結している間は、利用者に喜ばれても地域に恩恵が還元されることはない。

 広島県庄原市の優輝福祉会は1991年の設立当初から、施設は地域と共にあるを旗印に掲げて運営してきた。現在、高齢者福祉総合センター、障害者多機能型事業所など本来の福祉施設以外に、カフェレストラン、ラウンジ、パン工房、スイーツの店など約20の事業を展開、いまや地域になくてはならない雇用の場となっている。

 理事長の熊原保さんは1954年生まれの62歳、総領町の農家に生まれた。いったいどんな経緯でこの道を選択したのだろうか。

「私が福祉の世界で働くきっかけになったのは高校3年になる年の春休みでした。無二の親友がバイク事故を起こして全身まひ、いわゆる植物人間になってしまったのです。昨日まで一緒に遊んでいたいちばん仲のいい友だちが寝たきりになってしまったのはショックでした。私は介護の技術を身に付けていつも彼のそばにいて世話をしたいと思ったのです。やがて友だちが入ることになるだろう障害者の施設を訪ねて、私が高校を卒業したら働かせてほしいとお願いしました。しかし施設側からは、今は専門の教育を受けている人でなければ採用できないと言われたのです」

 熊原さんは、駒沢大学文学部社会学科社会福祉専攻に進んだ。駒沢大学を選んだもう一つの理由は、仏教への憧れもあった。

「駒沢大学はご承知のように道元が開基した曹洞宗系の学校です。私は福祉の道に進めない場合はお坊さんになりたいという願望もあったのです」

 農家の三男が、家業とは全く関係のない僧職に就きたいと考えていたというのは生来、仏教的倫理観を持っていたのかもしれない。

 大学4年間、みっちり社会福祉の専門教育を受けて、故郷に帰り、施設の門をたたいたが、今度は「現在は職員は採用していない」と断られた。親友は大学卒業の間近に亡くなっていた。

「それで就職先を探していると、庄原市東城町の養護老人ホーム東寿園から“うちに来ないか”と声を掛けていただいたのです」

 それから15年間、熊原さんは生活指導員として東寿園で福祉の現場をみっちり学ぶことになった。

「当時の園長がかなり自由な立場で働かせてくれましたので、他地域の施設を見学したり、各地域の福祉の専門家や行政職員とも交流できて、この15年間で福祉の基本的な考え方が形成されました」

 

施設の「小規模」化を訴えた先見の明

 当時、各地の施設を巡り歩いて、熊原さんは疑問を抱いた。

「当時は施設は大きいほうが立派であるという感覚でした。コロニー(集団居留地)という言葉があったほどです。大きいところでは8人部屋、少ないところでも6人、病院の大部屋のようなところでカーテン一枚で仕切られている空間で日々の暮らしを送っていたわけですから、全くプライバシーがありません。これではオナラもできない、札束も数えられない、私はこんなところには入りたくないと強く思ったものです。それに老人ホームに自ら進んで入る人はほとんどいません。火事を出されるのが心配だからとか、自分で身の回りのことができなくなったからとか、みんな働きに出てお年寄りの面倒を見る人がいないからなどという理由で家族に半強制的に勧められて入所する人がほとんどです。しかし受け入れる側でどんなに快適な環境を用意したところで、老人は自分の家に帰りたがります」

 老人ホームの現状から熊原さんの頭に、施設は限りなく自宅の雰囲気を残し、「小規模」でなければいけないという考えが浮かんだ。小規模であれば空き家も活用できるし、一人ひとりの利用者の要望にも対応したきめ細かいサービスもできる。第一、初期投資が少なくて済む。増大する社会保障費の抑制にもつながるのである。

小規模施設については熊原さんの著書『まあるくなあれ』(1994年、あけび書房刊。熊原保・指田志恵子共著)で力説されているが、まだデイサービスもショートステイも給食サービスも在宅介護支援センターもない時代だったから、この提言は大胆なものだった。熊原さんは、福祉はあまりにも制度や法律に縛られ、タテ割りに細分化されているので現実に合わないことも痛感していた。利用者の様態に合わせて介護するのではなく、法律に決められた基準に沿って介護する、つまり本末転倒になっていたのである。本のタイトルは、制度も国も垣根を低くし、寛大に丸くならなければいけないことを皮肉る意味もあって付けられたものである。

実際に社会福祉の関連法は膨大で多岐にわたる。介護保険法、健康保険法、児童福祉法、障害者基本法、障害者自立支援法、生活保護法、老人福祉法、その他に地方自治体の条例もあり、複雑きわまりない。これらの法律を理解するのは司法試験に合格するほどに難しい。しかもこれらの法律が現実と懸け離れている場合がしばしばあった。

「ある年、総領町に大雪が降ったのです。公道には役場が除雪車を出しましたが、お年寄りが住む家の私道は除雪されません。私は地元消防団やボランティア団体を駆け回って除雪を依頼しましたが、どこも手が足りないということで断られてしまいました。ほとほと困った私は、デイサービスと機能訓練事業を3日間休んで雪かきや安否訪問を実施しました。ところが行政は、雪おろしはホームヘルプ事業に入れられないというのです。目の前に困っている人がいる。しかも緊急を要する事態なのに柔軟に対応できない法律に違和感を覚えました」

 こういう経験をした熊原さんは、福祉施設の小規模化をいっそう強く訴えた。その訴えが実現したのが2006年にスタートした小規模多機能型居宅介護事業である。

小規模多機能型居宅介護事業は、『通い』を中心として、要介護者の様態や希望に応じて、随時『訪問』や『泊まり』を組み合わせた柔軟性のあるサービスを提供するものである。熊原さんはこれを各中学校区に一つつくれば地域の福祉は格段に向上するという。

「私たちには、利用者の生活観、暮らし方をどれだけ認めることができるかが問われています。行政や社会福祉に携わる者は、利用する人が望む暮らしを凝視することが原点です。私がお世話してきた人はみんな“わしゃあ、家がええ。わしゃあ、総領がええ。ひとりになってもここで死にたい”といいます。この気持ちにどれだけ寄り添えるかが、私たちの最大の務めだと思っています」

40年に及ぶ熊原さんの福祉の精神を表した自作の詩を紹介したい。

女も男も

子供も障害者も大人も

家庭も地域も

生も死も

制度も国も

まあるくなあれ

 

福祉はまちづくりであるという思想

 福祉は地域に密着するものという熊原さんの考えは、1985年に和田芳治さんによって結成された「過疎を逆手にとる会」(後に逆手塾に名称変更)、通称過疎逆(カソサカ)に強く影響されている。熊原さんの実家が和田さんの家に近いこともあって、創立から過疎逆のメンバーだった。和田さんは藻谷浩介さんの著書『里山資本主義』で紹介されて一躍有名人になったが、地域づくりの代表的なキーパーソンである。本誌支局長の宮崎文隆さんも創立メンバーであり、本誌読者にも過疎逆のメンバーは多い。過疎逆の特長は日常使われている漢字を、独自に見つけてきた漢字に置き換えて新しいイメージを付与することが得意なことである。「人間工学」を「人間幸学」、「人間力」を「人源力」、「起爆剤」を「輝爆剤」というように違った文字を当て字にすれば、常識と思っていた概念から別の概念を発見することになる。ちなみに熊原さんが運営する「優輝福祉会」は、長年総領町の応援団だった永六輔さんの「君が輝けば 故郷も」という言葉から命名された。ミーイズムの反対のユーイズム、利他の心にも通じる。英語で言えばユーシャインになる。

熊原さんの名刺の裏には次の事業所が記載されていた。

・障害者多機能型事業所 里山福業

・デイサービスセンター ワークスクール(通所介護事業所)

・里山SWEETS幸房 モリモプディング(ケーキ製造販売)

・パン工房 ラ・パン

・カフェレストラン コージーガーデン(就労継続支援B型事業所。事業所内保育施設のこのこのっこ)

・ラウンジ 笑花

・紅梅通り 三軒茶屋(コーヒーやスイーツを出すまちなか交流施設)

・ペットボトルプラント みず幸場

・ソフトケ 藤原別荘(小規模多機能型居宅介護事業所)

・定期巡回随時対応型訪問介護看護事業所 ゆうしゃいん

・地域生活支援舎 ケアハウス吉舎(特定施設入所者生活介護事業所。軽費老人ホーム。通所介護事業所。短期入所生活介護事業所。喫茶ファイン)

・グループホーム・ソフトケア みら屋・三良坂

・ソフトケア ゆうしゃいん塩町

・高齢者&障害者ソフトケア ゆうしゃいん三次(小規模多機能型居宅介護事業所)

・ソフトケア 横山旅館(小規模多機能型居宅介護事業所。障害者グループホーム)

・ユニバーサルケア みとう温泉(通所介護事業所)

・地域共生型福祉拠点 ゆうしゃいん庄原(地域密着型小規模特別養護老人ホーム。短期入所生活介護事業所。小規模多機能型居宅介護事業所。障害者グループホーム。障害者福祉ホーム。ユニバーサルホーム)

・障害者支援施設 高齢者ともいきの里(障害者支援施設、ALS含む。障害者短期入所事業)

・高齢者総合福祉センター ユーシャイン 

                     ●()内は編集部注。

福祉施設は地域と共にあるという考えを実践している例として、近隣農家からの野菜の買い入れがある。過疎地域だから高齢者は多いが、元気な老人は7080歳でも畑に出ている。老夫婦は健康のために自分たちの食べる野菜作りをしているが、体が思うように動かないから収穫時期に収穫できないものもある。お年寄りが作る野菜は自分たちが食べるために作っているので、無農薬無で丹精込めた安心安全な高級野菜である。熊原さんはこれらの野菜を購入して、優輝福祉会のすべての施設で利用することにした。形が不ぞろいなものも多いが施設で調理するには少しも問題はない。熊原さんの試みを知った地元の人がその野菜を住民にも販売したいという。熊原さんはコージーガーデンの一角を貸して農産物直売所をオープンしてもらった。余れば全量、施設が買い取るのである。無駄になることもあった野菜が必要とされて、いくばくかのお金になる。野菜を作っているお年寄りたちも張り合いが出て元気になる。施設利用者は新鮮な高級野菜を食べることができる。地元住民もスーパーでは売っていない高級野菜を購入することができるからハッピーである。

優輝福祉会は職員300人、障害者150人、高齢者500人、食材費だけでも年間1億数千万円かかる。この食材をいままでは県外から調達してきたが、これを地元で調達することになったのである。相手を思いやる心とお金が、地域社会で回るようなったのである。このお金がまた、日銀券ではなく地域通貨「結貨」で支払われるのである。「結貨」は優輝福祉会が運営するレストラン、パン屋さん、ケーキ屋さん以外に、地元の店で利用できるところも数軒ある。

「お金が地域の外に出て行かない。地元に落ちて地元を潤す。地域を豊かにするんです」と熊原さん。

優輝福祉会のユニークな事業に、天然水のペットボトル販売もある。これは民間の天然水と競合するから販売は楽ではないというが、障害のある人が働く場として貴重なものである。現在は、水の充てんは機械による自動化が可能なのだが、仕事を奪わないようにあえて手作業で行っている。

 

まちのような老人ホームが理想

熊原さんの福祉事業は順風満帆のようだが、何度か挫折も味わった。その事件は総領町の特別養護老人ホーム「ユーシャイン」の入居者から寄付を受けたことから始まった。この老人は福祉のためならどのように使ってもいいが、絶対に自分の名前を明かしてくれるなと言った。熊原さんは寄付者の名前が知られることのないように社会福祉法人に計上せず、「社会福祉法人総領福祉会」の名義で農協に定期貯金した。ところが施設の増床に伴う土地確保が必要になって、そのお金を活用しようとなった時、社会福祉法人では農地を買うことができないことを知った。

そこで、熊原さんの個人名義で取得することもやむを得ないと役員会で決定したのだが、その経緯を理事会が知っているにもかかわらず、政争に巻き込まれて不正流用を疑われたのである。しかも手塩にかけて育ててきた「ユーシャイン」を追われることになった。この時、職員35名中32名が所長留任の嘆願書を出した。また職員13名の抗議の辞職願いも出された。後に身の潔白が証明されたのだが、うわさはうわさを呼んで、熊原さんは辞職して、口和町(現庄原市)の社会福祉協議会に転職、その後は音戸町(現呉市)の町立保健福祉総合センターの立ち上げに参画し、奈良県十津川村の特別養護老人ホームの施設長に就任した。故郷の総領町を追われたものの、熊原さんの人間性と手腕はすでに他県にも知れ渡っていたのである。

「あの事件が私を一回り大きくしてくれたと思います。地元のために生涯をささげたいと思っていたのに、思わぬところから矢が飛んできました。結果的に私のぬれぎぬが晴れ、身障者施設に情熱を傾けていることが分かって、呼び戻されました」

熊原さんはインタビューで、自分に非難を浴びせた人や行政の対応の不手際などに恨みがましいコメントは一言も語らなかった。熊原さんの性格そのものが“まあるい”ことも、福祉事業に適任なのだろう。

熊原さんの福祉の精神は、まちづくりと一致している。

「私は20年以上前に施設の中に囲炉裏や自在カギなど古い道具のある部屋を用意し、むしろを編む機械とか機織り機なども置いたのですが、老人たちがそれらに接すると身体は自然に反応するようです。昔のことを思い出して生きる力を取り戻していくようです。違う言い方をすれば分割ケアから統合ケア、つまりケアのすべてを統合したノーマライゼーションの重要性に早くから気付きました。施設内のサービスばかり考えていたら老人ホームは良くならないと思ったのです。施設の中も限りなく自宅と同じ雰囲気にしてあげたい。福祉とまちづくりは全く一緒であると思っています。老人ホームに勤務していたころ、講演に呼ばれて老人ホームに入らない方法を話してひんしゅくを買いましたが、その考えは今も変わっていません。老人ホームなど必要のない社会がいちばん理想的な福祉社会なのかもしれませんね。

ですから私は“まちのような老人ホーム。老人ホームのようなまち”をキャッチフレーズに掲げています。自宅は老人ホームの居室と考えてナースコールの代わりに緊急通報システムを充実させれば、自宅は限りなく老人ホームに近くなります」

熊原さんの考えを聞いていると、老後は庄原市に住みたくなってきた。

 

 

写真キャプション

 

1.    福祉事業はまちづくりの精神と同じだという熊原保さん。

 

2.    積み上げられた木材は、施設にエネルギーを供給するためのもの。障害のある人たちと健常者が一緒になって作業する。

 

3.    廃業した老舗旅館を買い取って小規模多機能型居宅介護事業所として利用している「横山旅館」。あるものをできるだけ活用するというのが熊原流。

 

4.    旅館のロビーだったところは、いまは老人のおしゃべりを楽しむたまり場。できるだけ自宅と同じ雰囲気を出すようにしている。

 

5.    ホテルと見間違える地域共生型福祉拠点「ゆうしゃいん庄原」。建物内は老人ホーム、介護事業所、障害者グループホームなどさまざまな形態で使用されている。

 

6.    優輝福祉会の事業の一つである「里山SWEETS幸房 モリモプディング」。パティシエは広島市からのIターン者。多様な能力を持った人たちが熊原さんの下に集まってくる。ここのプリンは銀座のケーキ屋さんにひけをとらない逸品。

 

7.    障害のある人たちに雇用の場をつくるために始めた「天然水」のペットボトル販売事業。

 

8. 就労継続支援B型事業所をはじめ、保育施設、レストラン、パン工房が併設されているコージーガーデン。ここの一角に近隣農家のお年寄が作る自家製野菜の直売所がある。

『かがり火』日記SPECIAL 菅原歓一

■某月某日

 秋田市上北手にある秋田県ゆとり生活創造センター遊学舎で開催された「第4回地域力フォーラムinあきた」に出席。若い世代が中心のこのフォーラムの発起人でもある本誌・菅原は基調講演らしきものをさせていただいたが、時間が30分と短く、そのうえ最近歯が抜けてとみに滑舌が悪く、言いたいことの半分も話せなかった。そこで発行人の権限で講演録に大幅加筆修正して、以下に掲載させていただくものです。

                  ◆

国は“反省”が足らないよ

 秋田県は全国都道府県のさまざまな分野の調査でどうも分がよくありません。自殺率は有名になってしまいましたが、ほかにも人口減少率、高齢化率が全国トップ、合計特殊出生率、婚姻率などの低さでも1位ですし、年間日照時間の少なさまで1位です。県庁所在地である秋田市さえもが「消滅可能性都市」として名前が挙がってしまいました。反対に小学生中学生の学力は全国トップなので救われるような気持ちになります。

こういう環境のせいか、秋田県の市町村で取材していますと、どうもネガティブな発言をする年配者に出会うことが多いんです。若い人は前向きですが、シルバー世代にはネガティブな考え方をする人がいる。こういう状況でまちづくりに取り組んでいる若い皆さんには頭が下がる思いです。私は、地域づくり情報誌『かがり火』を発行しているのですが、何かお役に立つことはないかと考えて4年前に始めたのがこのフォーラムです。秋田県の県民性というのは控えめというのでしょうか、恥ずかしがりやというか、内向的になる傾向があるようです。しかしこれらの風潮をつくってきたのはどうやらオジン世代、60歳以上の人たちがつくってきたと思われるので、それならば年配者は引っ込んで若者による若者のためのフォーラムを企画したらどうだろうと考えたわけです。オジン世代は裏方に回ってお金を集める役割をしようと提案したところ、私の高校時代の同期生が賛成してくれたので始めることができました。現在の実行委員はほとんど2040代までが中心になって進めています。

1回のゲストには『かがり火』編集長で哲学者の内山節氏と高知県馬路村農業協同組合長の東谷望史氏のお二人、第2回が島根県海士町の山内道雄町長、第3回が長野県小布施町の市村良三町長に来ていただきました。ゲストに有名人を招聘したのはやはり集客を考えたからですが、今年の4回目は予算の関係もありまして、言い出しっぺの無名の私がここに立つことになってしまいました。大変恐縮ですが、何とぞご容赦いただきたくお願い申し上げます。

 私は地域づくり情報誌を発行しておりますので、全国のまちやむらを訪ね歩いてきました。いま全国のまちやむらでは過疎を食い止めようと必死の取り組みをしています。特産品開発などの新規事業、移住促進策、山村留学、観光振興、空き家活用、都市との交流、人材育成、産直、子育て支援などありとあらゆるアイデアを総動員して行政も民間も涙ぐましいまでの努力をしています。何とかして自分の住むまちやむらを元気にしたい、人口の減少を止めたいという熱意は尊く、頭が下がります。

しかし私は、いまの地域づくりの進め方に少し違和感も覚えています。何か違うんじゃないかという気もするんです。特に国が進めている「地方創生」の戦略には疑問を感じています。地域づくりのプランを市町村に提出させ、そこに交付金を付けるやり方で地方は本当に活性化するのでしょうか。町や村の担当職員は知恵を絞り、先進地といわれているところに視察に出掛け、地元の大学の先生から協力を得、中にはコンサルタントにお金を払って計画を作っています。ハコモノ行政と言われた時代は過去のものとなりましたが、地方から上がって来る申請を霞が関が審査して予算を付けるやり方は変わっていません。私はこのプログラムに欠けているのは、なぜ日本の過疎がここまで進んだのかについての根本的な反省が欠けていることだと思っています。国は地方には有力な企業がない、働く場所がないから都市に出てしまう。働く場所さえあったら地方に人はとどまると考えています。確かにこの考え方は一面では当たっていますが、じゃあなぜ地方に働く場所がなくなったのかのそもそもを考えてみる必要があると思っています。地方の衰退を歴史的な必然として受け入れてしまっては本質的な問題に迫ることはできない。だから地方創生の企画案はビジネスコンテストの新規事業のようなプランばかりが集まる。経済さえ活性化すれば地方は元気になると考えるのはどこか間違っているように思えてなりません。

地方をおとしめていた30年代の教科書

いったいいつごろから過疎が始まったのか、私は『かがり火』を発行しながら29年間、その根本原因といいますか、源流を探し歩いてきました。一つの謎が解けたように思ったのは東京・江東区にある文科省の独立行政法人「教科書図書館」を訪ねた時です。ここには戦後の小学校、中学校、高等学校のすべての教科書が保存されていて、誰でも閲覧できるようになっています。

私が南中学校に入ったのは1956(昭和31)ですが、中学校でどんなことを習っていたのか再確認したくて、この図書館で懐かしい教科書を手に取ってみました。少年のころ学んだ教科書をめくった時、あのころ通っていた校舎や教室の情景、友人の顔が一気に浮かんできました。

私が習った教科書はどれだったかはっきり覚えていないのですが、見覚えのある教科書もありました。山川出版社、教育図書、清水書院など教科書出版社の社会科の教科書をめくってみると、どの教科書にも大抵「村の生活」というような章がありました。そこにどんなことが書かれていたのかといいますと、日本の村には、封建制度の旧習が色濃く残る、家父長の権限が強い、二男三男は農地を分けてもらえないから都市に働きに出るしかない、結婚する女性は貴重な労働力としてみられていると、ありました。中には、農村部は都市部に比べて高血圧などの疾病率が高い、回虫や十二指腸虫など寄生虫が多い、道普請などに出ない場合は村八分になることがある、と説明されているものもありました。驚いたのは『中学生の社会』(日本書籍、昭和31年度用)を開いた時です。著名な医師である若月俊一氏の著作から次のような引用がありました。

「骨と皮ばかりにやせほそったむすめさんが、外来診察室にだきかかえられてきた。診断してみると、結核性の肋膜えんと、腹膜えんだった。いったい、こんなになるまで、なにをしていたのだろうというと、『じつは祈禱師にかかっていたが、どうしても、うまくいかなかった。』という。『栄養はとっていたの。』ときくと、じつは祈禱師がたべさせなかったという。『患者のからだから、悪しきをはらうのだから、ぜったいに栄養をとってはならぬ。』というのだそうだ。」

そしてこの文章の下にはご丁寧にも祈祷を受けている写真があって、「こんなことも、おこなわれている。」というキャプションが付いています。この教科書は農家のお嫁さんの激しい労働を強調して、「五月田植は、なく子がほしや。あぜにこしかけ、ちちのましょ。」という佐賀県の民謡も引用しています。まるで農家には嫁に行くなと言っているも同然です。

反対に「都市の生活」という章には、大きな「ビルジング」が立ち並んでいて、官庁・会社・銀行・百貨店・新聞社・放送局が集中している。こういうところは生産の仕事はしていないが、政治・経済・文化・通信などの中心になって活動しているとありました。都市にはまた「さかり場」というところがあって、商店・娯楽設備・飲食店などが集まっていて人の出入りが激しいとありました。

『現代の社会生活』(実業之日本社)では都市について、「互いに自由競争を行っている。個人の才能がものをいい、個人の独立と自由が確立されている。家の格式とか古いしきたりはあまり問題にされない」とありました。こういう記述は中学生に都会への憧れを強くさせただけでなく、農村はダサくて遅れた地域というイメージを植えつけるにも十分だったことでしょう。

あのころの日本の農業はまだ圃場整備が進んでいませんでしたから、土地が狭いために機械化ができず、人力が中心で重労働だったのは間違いありません。耕運機などの農業機械の普及は数年後のことなので、まだ馬や牛の力をかりていました。教科書に掲載されている写真も馬や牛で田んぼを耕しているものばかりです。教科書ですからでたらめは書かれていませんが、しかし農村の人々は粗食なので栄養が取れず病気になりがちで、村は不衛生であると記述し、祈祷師まで登場させる必要があったのでしょうか。

昭和30年代、教科書だけが地方を軽視する風潮を醸成したわけではないと思います。おそらくこのころ、新聞やラジオ、映画館や劇場、学校や職場や家庭などあらゆる場面で田舎を揶揄し、軽んずる言論が展開されていたのではないでしょうか。

国家総動員体制に似ている

教科書にうそが書かれているわけではないでしょうけれど、都市を持ち上げ、村のネガティブなところを強調していることに悪意さえ感じてしまいます。確かに祈祷師を頼むような遅れている土地もあったでしょう、しかし何も特殊な例をわざわざ取り上げることはなかったはずです。このころの教育は地方を捨てて都市に出ようというキャンペーンを展開していたともいえるもので、まるで国家的洗脳教育を行っていたといえると思います。間もなく始まる高度経済成長を支えるために労働力を都市に集中させようという国家的意思が地方を軽視する風潮を醸成したのだと思います。国は、国民総生産を上げ、輸出産業を伸ばし、GNPを上げ、豊かな国をつくろうと必死だったのだと思いますが、一方で国が率先して地方から誇りを奪い、地方への敬意を失わしめたと言われても仕方がないのです。

この教科書の効果はてきめんで、間もなく中学生たちは集団就職でふるさとを後にして都市に出て行くようになりました。ちなみに教科書の最後のページには編纂委員として安倍能成や我妻栄など当時の碩学たちの名前が並んでいました。

都会に憧れさせたものの一つに歌謡曲があります。昭和31年から33年まで東京が歌われている曲が少なくありません。島倉千代子の『東京の人よさようなら』、大ヒットしたフランク永井の『有楽町で逢いましょう』」、守屋浩の『僕は泣いちっち』、三橋美智也の『夕焼けとんび』では空を舞うとんびにまでも♪そこから東京が見えるかい、と問い掛けています。

武田鉄矢さんが面白いことを言っていました。彼は福岡の人ですが、ある時、東京から帰って来た友人が紀伊國屋書店のカバーがかかっている本を持っているのを見て、地元の書店で売っている本と同じなのに、紀伊國屋書店の本のほうが知性がいっぱい詰まっているように感じたというのです。

もしこのころに内山節氏のような哲学者がいれば少しは状況は変わっていたかもしれませんが、内山先生はまだ5歳でした。

この教科書に呼応するように、親も教師も田舎には発展性がない、できるだけ都会に出て働きなさいと尻を叩いて送り出していたのです。

こういう状況をヨーロッパの国々と比べると、様子はかなり違います。ドイツはもともと都市国家ですから地方分権が進んでいますが、自分の生まれた土地に貢献することは価値あることだという考えが根強く、自分の生まれた土地で働くことに誇りを持っています。おそらくフランスでもイタリアでも同じではないでしょうか。

私の中学校のころを回想して申し上げておりますが、地方軽視、都会重視の傾向はずうっと昔からあったのですね。大正初期に発表された小学唱歌にその萌芽があります。最もポピュラーな♪兎追いしかの山、小鮒つりしかの川で始まる『故郷』は大正3年に発表されましたが、三番の歌詞に「志を果たしていつの日にか帰らん」とあります。この歌詞はどう解釈したらいいのでしょう。故郷は錦を飾るために帰る場所であり、錦を織る場所ではないということでしょうか。都会に出て行く友人を見送り、実家の農業を継いで田んぼを耕し、山に植林していた若者の胸の内はどんなものだったでしょうか、さぞかし無念で悔しい思いをしたことでしょう。

おそらく私が中学生のころの日本には、過疎という概念はなかったと思います。あの教科書を編纂した学者たちも、まさか50年後に過疎が訪れて、地方がスカスカになるとは想像していなかったでしょう。政策の結果はすぐには出ないものですが、後々になって重大な失敗に気が付いた時は責任者はこの世に一人もいないのです。

と、ここまで考えてくれば、原発も沖縄の辺野古問題も根っこのどこかで地方を軽視しているように思えてなりません。私は過疎化を止めるには経済原理を基調としたビジネス的手法だけでは限界があると思うのです。雇用さえ創出されれば地方が活性化されるわけではない。地方で暮らすことに誇りを持ち、地方で学び、働き、結婚し、子どもを育て、地域社会に貢献して死んでいく人生は都会で暮らす以上にすばらしいことなんだという、内山先生の言うところの“精神の習慣”を生み出す必要があります。そのためには何よりも地方へ敬意を払うことです。これまで国は地方へ敬意を払う代わりに、交付金や助成金を配ってきました。荒れ果てた耕作放棄地、消えて行く伝統的な行事、日に日に寂れる集落、隣人のいなくなる寂しさをお金で解消しなさいと言ってきたようなものです。国はお金で解決できないものはないと考えているのでしょう。

私は3年前の第1回のフォーラムで、地域づくりに必要なのはお金やアイデア、あるいは優れた地域リーダーの存在ではない、まちやむらに“おおらかな風”を吹き渡らせることだと申し上げました。おおらかな風とは肩書や学歴、財産や身分にこだわらず、また行政の政策にむやみに従うことではなく、あくまでも自分の頭で考え、こつこつと地道に地域のために汗を流している人たちをお互いに尊重し合う空気のことなのです。

『かがり火』で取材を重ねて気が付いたことがあります。地域づくりに成功して、経済が少しずつ活発になっている地域は、優れたリーダーがいるところと思われていますが、ちょっと違うのです。確かに卓越した地域づくりリーダーは存在するのですが、それだけではありません。活性化している地域には、頑張っている人を応援しようという雰囲気があるのです。「うちのまちには有名人はいないけれど、地元のために地道に頑張っている人がいるから、その人を取材してほしい」と他人を推薦する人がいる地域はうまくいっています。自分を売り出すことより他人を売り出したいという精神。自分の夢に挑戦するのはすばらしいことですが、地域づくりにおいては、他人の夢を応援することがより重要だという気がしています。

『かがり火』を編集する時に大切にしている言葉があります。イギリスの天文学者ジョン・ハーシェルの「We will do our best to leave the world better than we found it」という一文です。「われわれは自分が生きて来た世界よりも少しでもましな世界を次の世代に遺すために全力を尽くさなければいけない」と勝手に意訳して座右の銘としています。

高度経済成長時代を生きてきた年配の人たちは、ややもすれば成果主義、数字で物事を測ろうとします。「投資した金額に対してどれだけ収益を上げたのか」を重視します。しかし私たちはこのフォーラムを通して、目に見える効果だけを追い求めるのはやめませんか。

スウェーデンに「悲しみの分かち合い」という言葉があることを東京大学名誉教授の神野直彦氏の著作で知りました。高負担高福祉の思想は、自然環境の厳しい北欧では一人では生きられない、助け合って生きるためには悲しみも分かち合わなければいけないということから生まれた思想だということです。秋田の自然も冬は雪に閉ざされるなど厳しいものがあります。しかしマイナスもみんなで分かち合う思想が定着してこそ、住みやすいまちやむらができるのだと思います。このフォーラムが、秋田から新たな思想が生まれるきっかけになることを願っています。

 

【お知らせ】

◆今年の8月、山梨県北杜市清里の本誌支局長・舩木上次さんが経営する「萌木の村」のレストラン「ロック」が全焼しました。地下には八ヶ岳ビールのマイクロブルワリーもあり、大きな損害が出ました。そこで、「萌木の村」を訪れた人たちが中心になって「舩木上次さんを励ます会」を1215()18時から、東京・六本木ヒルズのハリウッドプラザで開催することになりました。「萌木の村」や船木さんにご縁のある方、これからご縁を結びたいとお考えの方の参加を歓迎します。詳細はkagaribiruby.famille.ne.jpにお問い合わせください。

◆『かがり火』の忘年会を1217()、東京・神田の「なみへい」で18時から開催します。本誌読者および読者と同伴の方ならばどなたでも参加できます。昨年は参加希望者が多く、ついにお断りする方も出てしまいました。

ご希望の方はなるべくお早めにお申し込みくださいますよう、お願い申し上げます。参加ご希望の方はkagaribiruby.famille.ne.jpへご連絡ください。

 

写真キャプション

「第4回・地域力フォーラムinあきた」の会場風景。

 

 6人の若者が地域づくりへの取り組みを発表した。

 

 全大会終了後は6つのグループに分かれて質疑応答。

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